録ではトマス・デ・サン・オウグスチノとよばれてゐる。
一六三〇年。布教のため故国へ潜入。神出鬼没の大活躍をはじめたのである。彼は先づ長崎奉行竹中|采女《うねめ》の馬廻り役に入込んだ。潜入の伴天連多しといへども、堂々日本の役人に化けおはせたのは彼一人である。しかも竹中采女は切支丹逮捕の総元締であるに於てをや。彼は自由に牢屋へ出入することができ、大村に入牢してゐたアウグスチノ会の布教長グチエレスと連絡し、通信を運んだり、給金をさいて給養したりした。一六三二年グチエレスが刑死の後は、アウグスチノ会の神父が彼一人となつたので、独力信徒の世話につとめ、近隣を忍び歩いて告白をきゝ慰問につとめた。一六三三年、露顕した。然し、彼の遁走力は洵《まこと》に稀世のものであつた。たつた一人のトマス次兵衛を捕へるために、九州諸藩の軍勢数万人が出動したのである。嘘のやうな話であるが、それですら、つかまらなかつた。
大村領戸根村脇崎の塩焼が次兵衛を山中にかくまつてゐるといふ密告があつたので、大村藩はこゝに総動員を行つた。大村藩所蔵の「見聞集」によれば、家老大村彦右衛門を大将に、少数の城内留守番を残して、士分は言ふまでもなく、足軽から土民に至るまで、十五歳から六十歳に至る全人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り、一歩一人の列を守つて山狩りをはじめたのである。山狩りの味方同志が同志討ちの危険があるので「佐嘉勢|者《は》腰に藁注連《わらしめ》平戸勢者大小鞘に白紙三つ巻島原勢者左の袖に白紙大村勢は背三縫に隈取紙を付け各列を定め出歩之刻限を極め暮に及相図を以て押止り其所に居て篝を焼夜中交替して不寝番を勤往来を改禁す」三十五日かゝつて山の端から端に及び、浦上から海へつきぬけてしまつたけれども、次兵衛を捕へることができなかつた。次兵衛はそのとき早くも江戸へ逐電し、今度は江戸城の大奥へ忍びこんで、お小姓組の間に伝道しはじめてゐたのである。江戸で布教の感化があらはれ、信者がふへたが、役人に嗅ぎつけられて、又、長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から三七年まで再び長崎に大騒動をまき起した。切支丹伴天連妖術使ひの張本人(昔の本にはかう書いてある)金鍔次兵衛(次太夫とも云ふ)の名は日本中に鳴りとゞろいてしまつたのである。どうして金鍔次兵衛と呼ばれた
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