当るといふので、陣中の動揺限りなく、遂に脱走する者数名が現れたのである。
二月二十二日。伊豆守は二十一日の戦争に死んだ敵兵の腹をさかしめ、腹中の物が青草の類ばかりで米食の跡のないことを見届け、総攻撃を決意した。このことは、伊豆の子供の日記にある。つまり、解剖学まで応用し、科学の粋をつくした力戦苦闘なのである。さうして、弓の矢がとゞいたのに、大砲の玉がとゞかなかつたといふ結果を残してゐるのである。
四 忍術使ひ
これも甲斐守輝綱の日記から。
この戦争に、忍術使ひが登場した。二月十五日、甲賀者を城中に忍びこませたのである。忍術使ひは近江の甲賀から呼びよせたものであつた。忍術使ひは失敗した。九州の言葉が分らぬうへに、切支丹の用語や称名を全然知らなかつたからである。忽ち看破され、慌てゝ逃げた。それでも忍びこんだ印に、塀に立てた旗をぬいて担ぎだしたが、石で強《したた》か頭をどやされ、決して見事な忍術ぶりではなかつた。切支丹の用語ぐらゐは暗記してから忍びこめばいゝのに、と、往昔猿飛佐助のファンであつた私は大いに我が光輝ある忍術道のために悲しんだが、之が、さうはいかないのである。今日では、それに相応の訳語があるが、当時は適訳がなかつたので、でうす(神)はらいそ(天国)いんへるの(地獄)くるす(十字架)といふ風に、こんな名詞まで外国語のまゝ用ひてゐた。こんちりさん、さからめんと、ゑけれぢや、どみんごす、などゝ、千にも近い南蛮語がそのまゝ使用されてゐては、九字を切つても、まに合はない。
一方、一揆軍も大いに妖術を用ひたと言はれた。俗書では、天草四郎も忍術使ひになつてゐるのだ。そのうへ、金鍔《きんつば》次兵衛が登場したとも言はれてゐる。蓋し金鍔次兵衛は、青史にその名をとゞめる切支丹伴天連妖術使ひの張本人で、この伴天連が実際島原の乱に登場すれば話は面白くなるのだけれども、あいにく彼はその直前に長崎で捕はれ、一揆の直前十二月六日、穴に吊されて刑死してゐる。だから、一揆に関係はない。
金鍔次兵衛は洗礼名をトマスと言ひ、姓は落合であるらしい。大村の生れ。父レオ小右衛門、母クララは共に殉教者であつた。彼は有馬のセミナリヨで勉学し、特にラテン語にその天才を現したが、一六二二年大殉教の年、二十二歳でマニラへ渡り、アウグスチノ会の司祭に補せられた。金鍔次兵衛は日本の渾名で、教会の記
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