れてゐる証拠なのである。重税と国司の貪慾、それをくゞる脱税法の案出、之が元来日本農村の性格であつて、淳朴などとよぶべき性質のものではなかつた。
人を見たら泥棒と思へ、といふのが昔の農村の生活であつて、事実、群盗横行し、旅人は素性の良くないものと決めてかゝるのが賢明であつたから、旅人に宿などはかさない風である。たまたま旅人が死んだりすると、連れに死体を運ばせて村境から追ひだし、葬ることも許さなかつたといふ。彼らの信用できるのは自分達の部落だけで、公共的な観念が欠けてをり、何かと云へば「だまされた」とか「だまされるな」と先づ考へる。泣く子と地頭には勝たれないで、御無理御尤もであるから、自主的に自分の責任で事を行ふといふことがなく、常に受身で、その結果が「だまされた」とか「だまされるな」といふことになるのであるが、かかる農村の要心深い受身の性格は一見淳朴のやうではあるが、反面甚だ個人主義的なものであり一身の安穏のためには他の痛苦を考へない。この欠点は今日も尚連綿として農村の血管を流れてゐると思ふ。
近頃の農村では「だまされた」といふ言葉が立派な弁明であるかのやうに頻りに用ひられてゐるのであるが、自らの責任に於て自主的に判断することが出来ないといふのは、まことに不名誉な話である。自主的に自らの態度を定め責任を以て対処するだけの自覚がなくては原始の土人に異ならず「だまされた」といふ弁明によつて新らたな責任を回避しようとするに至つては上古さながらの狡猾なる農村の性格が露呈せられたものと言ふべきであらう。
全く農村には生活感情や損得の計算はあるけれども思想だの文化といふものは殆どない。公共の観念や自主的な自覚が確立されなければ、思想も文化もある筈がないので、農村の思想だの農民文化だのと簡単に言ふ人があるが、農村に思想や文化があるとすれば、思想以前、文化以前の形態に於てであらう。
私は暫らく京都に住んでゐたことがあつた。古い文化の都市であり、又、学生の街であるが、全く活気のない都市である。そのうちに気附いたことは、この街には一流の精神がないといふことであつた。つまり本当に自主的な精神がない。常に東京といふものを念頭に置き、東京ではかうだといふ風に考へて自分の態度を決定する。関西のお嬢さん達には東京に見当らぬやうな突飛な行動をする人があり、私は偶然さういふ代表的なお嬢さん数人
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