そういう人々に限ってやたらに道義とかなんとか他人のお行儀のことばかり気にかける。つまり自分がないからである。自省がない。自分の力で物を本当に考えてみる、それがないのである。
どんな兇悪な犯罪でも、たゞれた愛慾でも、我々がもし良く考える心をもつなら必ず自分の心にも同じ犯罪者の血を見出す筈で、いかなる神の子といえども変りはない。キリストも釈迦もそうで、いかなる犯罪も悪徳も犯しかねない罪の子という自覚から生れてきたものがその宗教である。小平も樋口も我々の心に住んでおり、璽光《じこう》信者の狂態も同じ芽が万人の心に必ずある。全ての人が犯罪者となり狂人となる素質を持っており、外部条件によって、そうなる。我々は人をそしり、笑う前に、己れを知り、そして外部条件を考えることを知らねばならぬ。
戦争中の日本人は国民儀礼という奇妙奇怪な行事をやり、朝ごとにノリトのような誓いを合唱したり、電車の中で他人のお尻ごしに宮城を拝んだり、璽光信者と殆ど変らぬようなことをやっていた。今日も尚旅行中の陛下に上書したり、食糧難のある筈のない陛下へ米を献納したり、それを人々は赤誠とたゝえ、そして璽光信者を笑っている。
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