探偵小説とは
坂口安吾
推理小説というものは、文学よりも、パズルの要素が多い。
制作の方法から見ても、一般の文学と推理小説では根柢から違っている。
一般に小説というものは、執筆に先立って、構想せられた一応の筋はあるけれども、書きすゝむうちに、かねての構想をみだして作中人物が勝手な行動を起し、おのずから展開発展して行くところに、文学の創作という意味もあるのであろう。予定の構想通りに書ききれたり割りきれてしまっては、創造という作業は行われない。なぜなら、文学は、自我の発見であり、常に予定をハミ出して、おのずからの生成展開が行われることによって、自我の発見とか創造というものが行われ得るのである。
推理小説は、こうは行かない。
犯人は誰で、如何なる理由によって、如何にして殺人を犯し、如何にアリバイをつくっておいたか、小説の最後に於て解き明かされる事柄が、構想の最初に於て、明確に、予定せられておらなければならず、執筆の途中で、作中人物が構想をハミだして勝手なことを始めたのでは、おさまりがつかない。
つまり、実際に犯罪がすでに行われ、そこにヌキサシならぬ犯人がなければならぬタテマエなものを、執筆の途中から、犯人がスリ代っては、話にならない。予定をハミだすことのできない性質のものだ。
だから、推理小説の原則は、文学よりも、パズルで、パズルとしてメンミツに計量され、構想された上で、それをヒックリ返して、書きすすめて行くものである。
日本には、今まで、一口に探偵小説と称しても、主として怪奇小説であり、推理小説というものは殆ど行われていなかった。
だいたい推理というものは、論理的な民族に愛好される性質のもので、日本古来の文化教養には論理性が不足していたから、推理小説も発達する地盤がなかったのかも知れない。
一方に又、推理小説は職業化すると書けなくなるという性質がある。なぜなら、パズルというものがマンネリズムになっては、パズルの魅力を失うから、常に新手をあみださなければならぬ。
ところが、パズルの新手は、すべての独創と同様に、自分の既成の視角を切りくずして、新角度を見出すところから始まるという性質のものであるから、一生涯に無限にあみだされるというものではない。まれにアガサ・クリスチィのような、一作ごとに新手を用い、多作しながら変化をつづける天才的な作家もありうるけ
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング