称するけれども実はそれが雪国の貧しさの象徴とでも申したいようなものだ。何の風味もない。これを越後人は自嘲して「沼垂までくると信濃川の向うから湯づけの音がきこえてくる」という。沼垂は今では新潟市だが昔は新潟市ではなかった。両者信濃川をはさんでいる。察するに沼垂には湯づけの風習がないらしく、沼垂までくると川の向うから湯づけをすする音がきこえるというのだが、そのころ信濃川の河口は七町半もあった。洋々たる大河である。けだしこういう大ゲサな表現はまた新潟の表現で、彼らは生れながらにして大ゲサな表現が巧妙である。彼らは人が自殺した話をするにもユーモラスにしか語らない。しかしそれが少しも不愉快にきこえないのは彼らは本来自分自身を何より悪くいやらしく滑稽にしか表現しない根性が逞しく確立されそれが本筋をなして一貫しているからで、人の最悪のことを面白おかしく話をしてもイヤ味が感じられない。諦観のドン底をついておって自分の葬式まで笑いとばすような根性が風土的に逞しく行き渡っているのである。それが少年少女に特に強くでる。なぜかというとオトトやオカカは自分の生活苦があっていかに生れつきの持前でも多少は自分を笑い
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