帝銀事件を論ず
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)多寡《たか》
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帝銀事件はとくに智能犯というほどのものではないようだ。
この犯人から特別つよく感じさせられるのはむしろ戦争の匂いである。私は、外地の戦場は知らないのだが、私の住む町が一望の焼け野となり、その二カ月ほど後に再び空襲を受けて、あるアパートの防空壕へ五〇キロの焼夷弾が落ちた。中に七人の屈強な壮年工がはいっていて爆死したが、爆死といっても、爆発力はないのだし、ただ衝撃で死んだだけで、焼けてもおらず、生きたままの服装で、ただ青ざめて目をとじている屍体であった。
翌日はうららかな初夏の陽がふりかがやいていたが、私が用があって、このアパートを通りかかると、アパートの隣はすでに焼け野なのだが、今しも二人の若者が七人の屍体をつみ重ねて、火をつけるところで、ちょうど七人目を運んできて、ドッコイショと放りだしたところであったが、放りだして、まだ真新しい死人の戦闘帽にふと気がつくと、それをチョイとつまみとって、火のかからぬ方へ投げやった。
私の見たのはそれだけだったが、死人の靴も時計も、こんなふうにして、この二人の若者は淡々とつまみあげて、投げだしたり、ポケットへ入れたりしたろうと思う。見ている私に隠したり、遠慮するソブリなどはミジンもなかった。屍体から物をはぎとること自体が、一つの義務的な作業のような有様であった。
事実、あのころは、それで良かったのであろう。あの焼け野原の東京の物資の欠乏は今どころじゃない。靴も、時計も、帽子も、あのころは金はあったが、物がなかった。これから焼いてしまう死人に、立派な靴、帽子、時計はいらないのだから、それを灰にするよりも、残して自分が使う方が国家のため役に立つ。
三百、五百とつみ重ねてある焼屍体に、合掌するのは年寄の婆さんぐらいのもので、木杭だったら焼けても役に立つのに、まったくヤッカイ千万な役立たずめ、というグアイに始末をしている人夫たち、それが焼け跡の天真ランマンな風景であった。まったく原色的な一つの健康すら感じさせる痴呆的風景で、しみる太陽の光の下で、死んだものと、生きたものの、たったそれだけの相違、この変テコな単純な事実の驚くほど健全な逞しさを見せつけられたように思った。これが戦争の姿なんだ、と思った。
そうかと思うと、私が命カラガラ爆撃を逃げて麦畑へ飛びこんで俯伏すと、この野郎、国民のイノチのもとの麦畑を踏み荒すとは何事か、と私につかみかかってトッチメる奴がある。畑の持主の農夫じゃなくて、私より一足先に麦畑に避難していた戦闘帽の若い職工なのである。血迷っているのだ。麦は国民のイノチのもとであるかも知れぬが、その麦を大事にするのは国民のイノチが大事だからで、私自身はつまりその国民であり、そのイノチの難をさけて麦畑へ逃げこんでいる次第なのだが、この先生は、国民のイノチよりも麦のイノチを大事にしている錯倒にとんと気がつかず、血相変えて私の胸倉をつかんで、とっちめているのである。
かような智能の小児麻痺的錯倒から、終戦となり、民主主義。いきなり接木に健全な芽が生えてスクスク成長するはずのあるべきものじゃない。今日、すでに戦争は終ったという。しかし、どこに戦争があって、いつ戦争が終ったか、身をもってそれをハッキリ知るものは、絶海の孤島で砲煙の下から生き残ったわずかな兵隊ででもなければ、知りうるはずはない。誰も自主的に戦争をしていたわけではないのであるから、戦争というから戦争と思い、終戦というから終戦と思い、民主主義というから民主主義と思い、それだけのことで、それは要するに架空の観念であるにすぎず、われわれが実際に身をもって知り、また生活しているものは、四囲の現実だけだ。
四囲の現実とはなにか、まず焼け野原である。小さな家屋の唐紙一重にへだてられた雑居生活である。そこでは一本の薪、一片の炭が隣人にかすめ盗られることを憂い、いな、親兄弟が配給の食膳の一握りの多寡《たか》を疑い、子は親に隠して食い、親は子の備蓄を盗み、これをしも魂の荒廃、魂の戦争といわずして、何事が戦争であるか。
一足出れば、殺人電車である。私も一度、その中央に胸を押しつめられ窒息死に致るところで、その恢復に時日を要したことがあり、それいらい、私は電車がすくまで何時間でも待つことにしているが、勤めの人には左様な時間のゼイタクはできないに相違ないから、いやでも決死の覚悟で乗らねばならぬ。扉に外套がひっかかっている、電車が動きだす、外套をはさまれた男は止めてくれ、助けてくれ、と電車とともに走りだす、ホームの人はようやく気づく、気づいたときには男はすでにホームをひきずられている、ホームの人々がワアワア騒ぐが、後部の車掌は平然とホームの騒ぎに睨みをくれて、やがて車は人をブラ下げてひきずりつつ闇へ消え去る。これは私が東京新聞の記者とともに目撃した事実なのである。やがてキャーッという悲鳴をきくや、私たちは見るに堪えず、地下道さして、期せずして一目散に逃げだした。あとで分かったが、キャーッという悲鳴は、ひきずられつつある人の悲鳴ではなく、それを認めた若い婦人の悲鳴であったそうな。あとで思ったが、絹をさくようなキャーッという悲鳴、物の本にはザラにあって、私は現実にはじめてきいたのであるが、人が白刃の下でまさに殺される時に、覚らずしてこんな悲鳴をおのずと発するに相違ない。
二合五勺の、そのまた二十数日の欠配。これを忠実に守って死んだ判事があったが、生き得べからざる現実の中にわれわれは生きている。ヤミをしなければ生きられぬ。タケノコ生活ができなければ、身を売り、ヤミをやり、盗みを働くほかに手がなかろう。さもなければ、判事のごとく死する以外に道はない。
つまりわれわれの四囲の現実というものは、戦争と同じように荒廃しきっているのである。戦争と同じように、と私はいったが、私は戦争そのものを知らないのだ。ただ、戦争中における私の四囲の現実を知っていたが、恐らく大部分の人々がそうであるに相違なく、大陸でノンビリ戦争していた人々などは、そのころは衣食住は保障され、わがままは通り、今の現実にくらべれば、どっちが苛烈な戦地であるやら、これを通観して、今、戦争が終った、などと、観念上に架空な言葉を押しつけても、四囲の現実というものは、なお戦争そのものなのである。戦争は終った、という観念上の空言を弄して、この現実に新展開をもとめようとするのは、現実に魔法を行おうと試みるような幼稚なことで、現に荒廃せるこの様相をまずシカと認識してかからねばならぬ。すなわち、街は焼け野である。人は雑居し、骨肉食を争い、破れ電車に命をかけて押しひしめいている。
私が帝銀事件に感じるものは、決して悪魔の姿ではない。バタバタと倒れ去る十六名の姿の中で、冷然と注射器を処理し、札束をねじこみ、靴をはき、おそらく腕章をはずして立ち去る犯人の姿。私は戦争を見るのである。
あの焼け野の、爆撃の夜があけて、うららかな初夏の陽ざしの下で、七人の爆屍体を処理しながら、屍体の帽子をヒョイとつまんで投げだす若者の無心な健康そのものの風景。木杭よりもなおおそまつに焼屍体を投げころがす人々。
私の見たのはそれだけであるが、外地の特務機関だとか憲兵だとか、芋のように首を斬り、毒薬を注射して、無感動であった悪夢の時間があったはずだ。戦争というまことに不可解な麻薬による悪夢であり、そこでは人智は錯倒して奇妙に原色的な、一見バカバカしいほど健全な血の遊びにふけり麻痺しきっていたのである。
私は帝銀事件の犯人に、なお戦争という麻薬の悪夢の中に住む無感動な平凡人を考える。戦争という悪夢がなければ、おそらく罪を犯さずに平凡に一生を終った、きわめて普通な目だたない男について考える。終戦後、頻発する素人ピストル強盗の類いが概ねそうで、すべてそこに漂うものは、戦争の匂いなのである。道義タイハイを説く人々は、戦争は終った、という魔法の呪文を現実に信じつつある低俗な思考家で、戦争といえば戦争、民主主義といえば民主主義、時流のカケ声の上に真理も実在していると飲みこんで疑らぬ便乗専一の常識家にすぎない。
戦争はけっして終っておらぬ。四囲の現実は今こそ戦争中よりも戦争的であり、人々の魂はそれ自ら戦争の相を呈しているではないか。なにゆえか。物がないからだ。衣食足れば礼節を知る。まことに真理は単純であり、その通り、永遠不変の実相なのである。電車が有りあまれば、押せといっても押しはせぬ。物資に事欠くことがなければ、何者が盗むであろうか。昔からそうである。戦争のせいではない。人が物を盗むのは、物に窮しているからである。
われわれは同胞を信頼しなければならぬ。なぜなら、二合五勺のその又二十数日の欠配、千八百円ベース、この窮乏にあって、われわれはかくも安穏ではないか。暴動一つ起りはせぬ。ピストル強盗と申しても数えるほどのことであり、この万民窮乏の実相から見て、むしろ驚くほど少い犯罪数だと私は思う。
盗人や殺人強盗というものは、私の青年期の不況時代にも、ずいぶん多かった。不況時代となり、職を失い、窮すれば、平和な時代でも犯罪は絶えない。今は窮乏のドン底時代だから、その数が多く、かつ、戦争という悪夢の中で生育して冷酷さに無感動となったために、いらざる血を見る事件がふえた。そこにハッキリ漂うものは戦争の匂いである。人を憎むべからず、罪を憎むべからず、戦争を呪うべし。それにつけても、この窮乏の実相にもかかわらず、むしろ犯罪は極めて少いということの方を、むしろわれわれは厳しく認める必要がある。少数の兇悪事件に耳目をそばだてるよりも、窮乏にたえて敢えて罪を犯さざる多数の同胞への信頼を持たねばならぬ。
料金投函を民衆の勝手にまかせた公衆電話からは、通話数以上の料金が現われたというではないか。各自の責任にまかせれば、かくのごとく、公明正大な同胞の心を信じなければならぬ。いたずらな禁止は、好奇心のもとであり、すべてを各人の責任にまかせるとき、やがて道義はおのずから各人の自覚によって育つものだ。
私はこの現実の日本において、最も大きな罪のもとをなすものは、物資の窮乏をおいては、つぎに、為政者の国民への不信であると考える。自らのみ道義あつく、心正しきものとする為政家ヅラほど浅はか、醜悪なものはない。御身等はこの欠配に死にもせず、痩せもせぬとはなぜであるか。まずそれを考えることである。
私は政治家が、政治家的ルートによって暖衣飽食していることをとがめたいとは思わぬ。むしろ暖衣飽食すべきだと思う。かつての米内大将のごとくに、ゾースイをすすり、国民に範をたれるのも、その人格の高潔なる、まことに有難いことだけれど、しかし、政治は清貧を事とする無策なものでは困るのである。たとえば、さきに餓死した判事のごとき人物が首相となり、窮乏の時であるから遅配に我慢せよ、余が範をたれると称して餓死されては、国民たるもの、降参せざるをえない。無策のシムボルとして自ら清貧の範をたれるのは、政治ではない。その有策のゆえに選ばれ、国民の輿望を担うて策を施すのが、政治家というものだ。
しかし、自分が暖衣飽食する以上、それについての内省を忘れてはならぬ。私は暖衣飽食とはゆかないけれども、千八百円ベースの人々にくらべれば、はるかにゼイタクな暮しをしているであろう。概ね小説家はそうである。闇屋もそうである。飲食店のオヤジも、パンパンも、そうである。そうであるからわれわれは、人々に窮乏に堪えよ、などとは説きはせぬ。もしも私が、読者にむかって、耐乏生活の小説などを書き、ヤミの悪徳を説いたなら、文士としては愧死《きし》すべきことであり、かかる徒輩は文学者として存在しえないものである。
しかるに、政治家のみは、自らは暖衣飽食しながら、国民に向って、ヤミ屋は国賊だといい、千八百円ベースの配給生活に耐えざるものは罪人であるかのごとくいう。かかることを公言して愧死した政治家も官僚もお
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