が命カラガラ爆撃を逃げて麦畑へ飛びこんで俯伏すと、この野郎、国民のイノチのもとの麦畑を踏み荒すとは何事か、と私につかみかかってトッチメる奴がある。畑の持主の農夫じゃなくて、私より一足先に麦畑に避難していた戦闘帽の若い職工なのである。血迷っているのだ。麦は国民のイノチのもとであるかも知れぬが、その麦を大事にするのは国民のイノチが大事だからで、私自身はつまりその国民であり、そのイノチの難をさけて麦畑へ逃げこんでいる次第なのだが、この先生は、国民のイノチよりも麦のイノチを大事にしている錯倒にとんと気がつかず、血相変えて私の胸倉をつかんで、とっちめているのである。
かような智能の小児麻痺的錯倒から、終戦となり、民主主義。いきなり接木に健全な芽が生えてスクスク成長するはずのあるべきものじゃない。今日、すでに戦争は終ったという。しかし、どこに戦争があって、いつ戦争が終ったか、身をもってそれをハッキリ知るものは、絶海の孤島で砲煙の下から生き残ったわずかな兵隊ででもなければ、知りうるはずはない。誰も自主的に戦争をしていたわけではないのであるから、戦争というから戦争と思い、終戦というから終戦と思い、民主主義というから民主主義と思い、それだけのことで、それは要するに架空の観念であるにすぎず、われわれが実際に身をもって知り、また生活しているものは、四囲の現実だけだ。
四囲の現実とはなにか、まず焼け野原である。小さな家屋の唐紙一重にへだてられた雑居生活である。そこでは一本の薪、一片の炭が隣人にかすめ盗られることを憂い、いな、親兄弟が配給の食膳の一握りの多寡《たか》を疑い、子は親に隠して食い、親は子の備蓄を盗み、これをしも魂の荒廃、魂の戦争といわずして、何事が戦争であるか。
一足出れば、殺人電車である。私も一度、その中央に胸を押しつめられ窒息死に致るところで、その恢復に時日を要したことがあり、それいらい、私は電車がすくまで何時間でも待つことにしているが、勤めの人には左様な時間のゼイタクはできないに相違ないから、いやでも決死の覚悟で乗らねばならぬ。扉に外套がひっかかっている、電車が動きだす、外套をはさまれた男は止めてくれ、助けてくれ、と電車とともに走りだす、ホームの人はようやく気づく、気づいたときには男はすでにホームをひきずられている、ホームの人々がワアワア騒ぐが、後部の車掌は平然とホー
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング