いから、ウン却々《なかなか》よく書けたなどと言ったが、彼はこれを町の旬刊新聞へのせた。
「あの子もバカバカしいことを言ったり書いたり困ったものです」
 とオカミサンは私に恨みを云った。私が彼をおだてゝ、こんな風にしたと思っている様子であった。オカミサンの身になれば、変テツもない利根川べりの畑を国立公園の美観だと思いこんでいる倅の熱狂ぶりをみるのは苦痛に相違ないが、なんだい、川と畑があるだけじゃないか、などゝ無慙なことを云って青年の祈りを傷《きずつ》けるワケに行かない。私の立場というものも苦痛なのである。この青年は戦死したそうであるが、生きていれば、代議士ぐらいになって、取手町国立公園論をぶったかも知れない。それぐらいの熱狂ぶりであったし、その奇妙な熱狂を取り去れば、非常にカンのよい商売上手な子供であった。
 下村千秋、上泉秀信、本屋のオヤジ一行は時々釣りに来たが、私は二度だけ、小一時間ぐらい見物に行ったゞけである。一行がくるという前の晩に、倅が近所の百姓ジイサンをつかまえて、どこが今、釣れるかね、などときくのである。
「古利根がよかっぺ」
 とか、どこぞこは、もう、ダメだっぺ、というようなことを答える。答えるジイサンも釣りをしているワケではない。たゞ水面をジッと睨むと、魚がいるかいないかチャンと分る名人なのだそうである。野良仕事の行き帰りに、川や湾をジッと睨んで、チャンと頭にとめておいて、釣りに行こうという人に教えてくれるのであった。
 一度は利根川へ舟を浮べて釣るのを見物した。小一時間つきあって、三人合計して一匹しか釣らなかった筈である。それでも釣り終えて帰る時には、各自四五匹ずつは釣っていたようであった。塵もつもれば山となる、というのが釣りの心境かも知れない。
 一度はずいぶん遠い町外れのタンボの中の水溜りであった。沼だの池などというわけに行かない。五間四方ぐらいの水溜りなのである。廻りに肥えダメなどがあって異臭が溢れ、こんな水溜りで釣れたフナなど、一目環境を見た人なら食う気持にはなれない筈であった。すぐ頭上には土堤があって、そこへ上ると眼下に古利根がうねり、葦が密生している。こっちは、とにかく景色がいゝ。渓流とか、海とか、釣りなどゝいうものは風流人のやることで、無念無想、風光にとけこんでいる心境かと思ったら、とんでもない話なのである。土堤の向うに古利根の静かな
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