文人達は、対象にくひこむよりも、淡々とまとまる方が高いものだと考へ、さういふ淡々さの退屈千万な骨董性を弄んで、それが高級な文学だなどゝ思ひこんでゐた。淡々だの、退屈だの、面白くないといふことが、純粋な文学の境地だと思ひこんでゐたのである。
 だから、文学は面白くない、退屈すぎる、もつと面白くなければならぬ、さう気がつくと、文学も読物も区別がつきやしない。読物も文学だと思ひこんでしまふ。
 然り、文学はどんなに面白くても構はない。どれほどハランにとみ、手に汗をにぎらせ、溜息をもらさせても構はない。たゞ、文学は常に文学であり、読物は常に読物だ。この二つは根本的に違ひがハッキリしてゐる。
 対象にくひこむことによつて、おのづからハランは起る筈だ、魂からのハランが。そのハランは、やつぱり病人以外には、用のないものであるかも知れぬ。
 たゞ、淡々だの、枯淡なる風格だの、退屈だの、面白くない、といふこと自体に意味も高さもないことだけは、ハッキリ知ることが必要である。作家の肉体力はカゲロウの羽の如くに病み衰へても、作家精神といふものは常に最大の貪慾を失つてはならぬ。芸術の貪慾と放蕩の中で作家は自爆し
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