あらう。農村生活の形態は素朴であり、農民は素朴であるかも知れないが、その素朴を素朴に書くためにも、作家自体の観念が素朴であつては不可である。作品の裏側に書かれざる複雑な作家の観念がなければならない。『部落史』は冗漫すぎる描写によつて小説の形式として失敗し、人間性を度外視した弱者(形態上の)への偏愛によつて、小説そのものとして誤つてゐる。
丸山義二氏の『田舎』は西播磨のかなり裕福な農村と農民を描いた小説である。美人で働き者の嫁が、姑と小姑にいぢめられながらも、良人と隣人愛に生き、やがて良人の応召によつて、めでたしとなる。
若しもこの小説から、農村の生活様式の冗漫な描写を取去つたなら、いつたい何が残るだらうか、キングの通俗小説と同じものしか残らない。
それ以上の深さも高さもなく、悪いことには、それ以上に面白くもないのだ。さうして、この小説がとにかく通俗小説らしいのは、たゞ冗漫な農村の生活様式の描写があるからに外ならない。
純粋小説はその冗漫な描写によつて通俗小説よりも傑れてゐるわけでないのは自明だが、不幸にして以上の二作は農村描写の冗漫を除けば――即ち人間性の問題となれば、結局通俗小説以上の深さ高さを持たない。
農民作家は往々農村の人間性以上に生活様式の描写を文学の問題としたがるやうだ。
(二)[#「(二)」は縦中横] 結婚の生態と作者の生活
石川達三氏の『結婚の生態』は石川氏が愛情なく同棲した女と別れ、健全な結婚を目標にしてその生涯の建設を企ててから、つひに女を探し得て結婚生活に入り、子供をもうける二年間ほどの記録である。
この記録に語られてゐる石川氏の生活は、すべてその人生観が土台であり、結婚生活がそれに沿ふて着々築かれて行くのであるが、人生観と生活が一読羨望に堪えないくらい食ひ違ひがなく、破綻をみせない。この作品の強味もこゝにあり、また最大の弱点もこゝにあるのだと僕は思ふ。
これに就いて、思ひ出したひとつのことがある。死んだ嘉村礒多氏は殆ど社会と没交渉な生活を送り、肉親達と又特に妻君とのせまい交渉の内部だけで執拗に内省しながら筆を執つてゐた人であるが、従而《したがつて》、その夫婦生活がいはば必死で縋り合つてゐるかのやうに親密無二であつたらしい、嘉村氏の死後、その妻女の良人の追想など哀切で、至高の貞女をしのばせるものがあつた。
そのころ宇
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング