ある。狂人の全てが斯うではあるまいが、これが狂人なら狂人は恐るべき存在だと私は思つた。
 狂人のこの驚くべき鋭敏さには彼の父親が気付いてゐた。なぜなら、長島の父は、いはば長島の一生恐るべきライバルの一人であつて、彼の精神史は常に父を一人の敵として育つてゐたからだらうと思ふ。長島の父は政治家であるが、彼と性格が相似てゐる上に、腹と腹で睨み合つては病弱な長島のとうてい太刀打の出来難い線の太さと押しの強さがあるやうに考へられる。恐らく彼は父親に精神的に圧迫され通してゐたのだらうと思ふ。彼が危篤の病床で父親に叫んだ言葉は、「パパ俺は偉いのだ」といふ一言であつた。ところがパパは一言も答へなかつた。答へなかつたにも拘らず、彼は最後まで子供は決して気が狂つてはゐないと断言してゐた。ちなみに、彼の家族は皆彼は発狂したと信じてゐたのである。さうして、さう考へるのは決して無理ではなかつたのである。
 父対長島の場合のやうに、身を以て絶叫してゐるにも拘らず返答がないといふこと、これは同時に彼対友人、いな、彼対人生の関係でもあつた。併《しか》し人々は故意に彼を苦しめるために返答しなかつたわけではないだらうと思はれる。所詮、この男は、この悲惨な結果を生まざるを得ない宿命人であつたのだらう。
 長島は危篤の病床で私一人を残して家族に退席してもらつてから、私に死んでくれと言つた。私が生きてゐては死にきれないと言ふのである。さうして死んだらきつと私を呼ぶと言つた。死ぬまぎわには幽霊になつて現れるなぞとも言つたのである。さうして私に怖ろしくなつたらうと狂気の眼を輝やかして叫ぶので、私があたりまへだと言つたら、世にも無慙な落胆を表はしてそれつきりして沈黙してしまつた。
 併し、正直に白状すると、私はそれほど怖くはなかつたのである。彼はその悲惨な宿命として、彼の如何なる激しい意志をもつてしても到底私を怖がらしたり圧迫したりすることは出来ない因果な性格を持つてゐる。私は無神経なること白昼の蟇《がま》の如き冷然たる生物であつて、デリケートな彼はその点に於て最も敵対しがたいのである。それにも拘らず、彼は私のやうな鉄の意志、鉄の無神経をもつところの人間を相手として友達に選び、それに抵抗しつつも最も親しまざるを得ない悲劇的な性格を与へられてゐたのであらう。
 私は彼の生前によく彼に言ひ言ひしたのであるが、君は僕に
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