方であった。するとマリ子はその末尾に一行の評言をこう書いた。
「今度日本一の鹿を買うようにお父さんにすすめなさい」
十日ほどすぎてから根作が学校へねじこんだところを見れば、それまで気がつかなかったのであろう。彼は馬の口をとって乗込み、
「俺を日本一の馬鹿と云うたな。さてはまたこの馬を日本一の馬鹿と云うたのか。いずれにせよ……」
朝方から夕方まで馬とともにごねていた。そのために学校は一日授業ができなかった。その時からの不倶戴天の恨みがある。根作は何かにつけてマリ子の敵であることを隠さなかった。
また、茂七はばくちであげられたことがあった。この村の悪い習慣で、ばくちを日常の娯楽とする者が少くない。別に貸元親分がいるわけでもなく、ばくち打ちというヤクザを稼業とする者がいるわけでもないが、農民の夜の楽しみがばくちである。年々、目にあまる時に誰かしらあげられる。その年は茂七があげられた。
するとその年の小学校の学芸会に、ばくちの最中にふみこまれてあげられるという劇がでた。ところが、あげられる役が茂七の倅《せがれ》であった。彼は泣いて三拝九拝するが及ばず、後手にいましめられてえんえんと号泣しつつ引ッ立てられるのである。
茂七が怒ったのは云うまでもない。また村民の多数も怒った。なぜなら彼らはばくちの常習者であったからだ。
ところが受持教員のマリ子が云うには、その劇は子供たちが自発的に創作上演したもので、役割も子供同志できめたことだというのである。茂七の倅に問いただすと、彼はうなずいてそれを肯定したばかりでなく、俺が俺のとっつぁま(父)の役をやるべいと勇み立って引きうけた事柄なぞも次第に判明した。思わぬ藪蛇に終ったために、茂七ならびに同類のマリ子への恨みは益々深く根を結ぶに至ったとのことであった。
以上は一例にすぎないが、かくの如くにマリ子には敵が多い。たまたま村に防火用水を設置することになり、それは民家の密集地帯に設くべきものであるがために、村民の声は期せずしてマリ子の家を取りこわして設置すべしと決するに至った。故小野大佐は分家であるために、この村には持ち家がない。遺族は戦争中小さな農家を借家して疎開生活を営んだのである。
余が村長に就任後、期日到来して、小野遺族の強制立退きが実行せられることとなったのである。遺族はマリ子のほかに母と弟の三人にすぎないが、この弟はカリエスのためかねて病臥のままであった。
余分の住宅がある筈もない山里のこととて遺族は転居先に窮した。そのとき、学校の同僚が見かねて、宿直室にマリ子一家を収容すべしと定め、役場や村会にはかることなく転居せしめてしまったのである。
ために役場の楼上には緊急村会がひらかれて対策が凝議せられた。村会の意見では、学校側の処置は村に対する公然たる対敵行為であるということである。そこで余が立って、
「学校側が無断でこの処置を実行したのはよろしくないが、同僚たる教員一家が住宅に窮している際に、学校の宿直室を提供しようとはかるのは唯一の策で、策として難ぜらるべきところはない。彼らの処置が一見対敵行為の如く角が立って見えるのは、そもそも防火用水設置に当って小野遺族の住宅に白羽の矢をたてたやり方や、転居先を用意してやらなかったことなぞが、彼らをして敵意をいだかしめる原因をなしているように愚考する。要するに、村の処置にも反省すべきところがあるように思う」
かく論じ終る暇もなく、
「何を云うか!」
と大喝した者がある。馬と鹿の根作であった。彼は村会議員である。彼は云った。
「ないものは仕方がない。それとも村長は手品を使って空き家をつくることができるか」
山里の人間は妙な譬喩を用いて論議を行う天分がある。
「そもそも学校の宿直室は公器である。同僚の危急見るに忍びないのは結構であるが、それでは何故に彼らの私宅を開放して収容しないのであるか。村の公器を私用に供するとは奇怪なる汚職事件である」
根作はこう断じて見栄をきった。農民は意外に弁論に長じているもので、村長に就任以来特に余の痛感したのはこの一事である。浅薄な常識論を述べたてて、意外に深刻な反撃を喫したことは一再にとどまらない。余の悪癖は口の軽く論拠の浅いことである。余は根作の反撃をうけて沈黙せざるを得なかった。
「村長無用!」
「村政に口をだすな!」
「約束を忘れたか!」
口々にこう罵られて、余はいさぎよく退席した。無為無能の村長をもって任じているから、反撃をくらえばこだわりなく退くだけの悟りは開いていたのである。しかるに余の退席後、奇怪な決議が行われたらしい。
次の日曜日に大工が小学校を奇襲して、職員室と宿直室の根太をはいだ。これを一部に当てて教室に床を張ったが、その代りとして、職員室と宿直室は土間に変ってしまった。
報に接して余も学校にでかけたが、村長たる余でさえも、村会議員とその手先の村民にさえぎられて、工事の現場に立入ることはできなかった。村民の一部は消防の装束をまとって、禁止区域に立入る者は容赦なく撃滅の覚悟をかためていたようである。
「戒厳令下だね」
と余が呟くと、
「不謹慎な。口をつつしみなさい。元軍人とも思われぬ」
羽生が青筋をたてて余を罵った。
先日羽生が余に向って本日の出来事と同じようなことを口走ったのを耳にとめていたから、本日の挙も発頭人は彼であろうと考えた。そこで余は羽生に向って、
「貴公は先日数年来の決算書類を余に提示して逆さに振っても根太板一枚でないことを強弁したばかりであるが、あれは一時の偽りだね。本日の挙は甚だ不合理ではないか」
「はッはッは。今日のことでは一文も村費は使っていませんぜ。これぐらいは、まだ序の口さ。あのあばずれやその同類を村から叩きだすためなら、根作なぞは自慢の馬を売ってもよいと云ってるぐらいさ」
「鹿の頭がなくなってよろしかろう」
「不謹慎な!」
羽生はまた青筋をたてたが、余らを取りまいていた村民たちはげらげら笑った。そして噂のひろまるのはまことに早いもので、本日の大工費用は根作が自慢の馬を売って用立てるそうだということが学校をとりまいて見物していた人々の口から口へ伝わったのである。それを聞きつけたので、根作が血相変えてやってきた。
「村長はいるか。どこだ」
待ってましたと羽生が彼を迎えて、
「村長はまことに不謹慎だ。お前さんが馬を売れば、鹿の頭がなくなってよろしかろうと云っている」
「ヤ。そのことで来たのだが、今日の費用は俺が馬を売って調達するとは、いったい村長は何を根拠にそんな阿呆なことを云うとるのか。俺がいつそのようなことを云うたか。村長は俺の馬がそんなに憎いのか。俺の馬を売らせたいのか」
羽生は当てが外れて狼狽した。
「いや、馬の話は今日のことではない。今日の費用は俺が自腹を切ってもよい。その話はまた別だから、まア、こッちへ来なさい」
羽生は根作の手をひいて、誰も居ない方へ急いで連れ去った。
余はマリ子の姿をさがした。故大佐と余とは陸海軍の相違があるから、たまたま県人会などの席で顔を合せた程度で、深い交りというものはなかった。しかし、故人の遺族が本日の如くに難儀しているのを同じ軍人として見過すわけにはゆかない。落付く当がなければ余の家の一室を提供してもよいと思った。
マリ子は人々の好奇の的となることも、同情されることも気に入らなかったので、学校の周辺から姿をくらましていた。
山際の禅寺に避難していたのである。余がそこを訪ねると、真っ先に顔を合せたのは先日の男教員で、彼は甚だしく憎悪をこめて余を睨んだ。彼は禅寺の下宿人であった。
「小学校の教員は犬ですか。土間で事務をとり、土間に藁をしいて宿直することになったそうですね。あなたは刑務所を見ましたか。人間の住むところは、牢屋でもちゃんと床がありますぜ。変な顔をしてますね。私の云うことが変梃に聴えますか」
彼が犬属にあらざることを示威することには同感できるが、その見幕には同感ができない。それはたしかにほぼ犬的であった。戒厳令下の消防団員や村会議員と同じように、牙をむく犬にほかならぬと思った。
余は犬に返答することを欲しないので、マリ子を探した。マリ子は人を避けて、裏の山に登ったという。裏の山は墓地であった。
マリ子は墓石の一つに腰かけて、目玉をむいて、腕を組んでいた。近づく余をじっと見つめているから、余も苦笑した。
「今日はどこへ行っても睨まれるばかりさ」
「私のはたばこがきれてるせい」
にこりともしない顔が、睨む目をそらして呟いた。
「私は御承知の如く無為無能の村長だから、村長たる力によってあなたに何もしてあげることができない。幸い私には夫婦二人には広すぎる屋敷があるから、部屋は自由に使っていただいてかまわないが」
マリ子は余の差出したたばこを吸っていたが、
「そんなに困っているように見える?」
「困っているように見受けられるが」
「やせ我慢はよした方がいいかな。でも、もっと困ったことだって、十回や二十回にきかなかったわよ。今まで生きてくるのに。今日なんか、私がこうしてぼんやりしてると、誰かがきて、みんなしてくれて、たばこもくれる人があるし、なんでもない方よ」
「やせ我慢じゃないかね」
「そうでもないらしいわ。私はね。むしろ羽生助役に感謝してるんです。土間の藁にもぐりこんで眠ることを教えてくれたから。ふとんだのたたみなんて、たたんで押入へ片づけることができたり、掃いたりするのに便利なだけだ。私がゆうべたたみの上のふとんにねたか、土間の藁にもぐりこんでねたか、誰に分るものですか。私でなくて、王様の場合だって、そうですよ。王様がふとんをひッかぶってねていたり、お尻だけだして便所にしゃがんでいたりするの、おかしいわよ。土と藁の中から目をさまして這い出してくる方が、よっぽど王様らしいや」
「私も自棄を起した覚えはあるが、結局熱湯はやけどするばかりで、飲むことも浴びることもできないのだね。生きるためにはぬるま湯に限るものだ。無為無能と観ずればたたみの上で平凡に夢が結べる」
「おじさま。お子さまは?」
「嫁に行ったよ。死んだ男もいる」
「この前、いつ、使ったのかな。おじさまなんて言葉。甘えたくなったのかしら。人をだます力が欲しいや」
「私の家へきて、休養しなさい」
「駄目なんです」
「なぜだね」
「土と藁の中から目をさまさなければいけないから。時々、たばこいただきに行きますわ。藁の中で見た夢、話してあげましょう。おばさまに、よろしく」
マリ子は背のびを一つして、立ち去ったのである。
余は墓地から山径をとって家へ戻った。道々余はマリ子ならびにその家族を無理にもわが家へ案内すべきではなかったかと後悔したが、余の語る話をきいた家人が、
「どうして御案内なさらなかったのですか。私が行ってお連れ致して参りましょう」
と立ち上りかけるのを見ると、余の心は変ったのである。
「放っておきなさい。悲しいかな。私たちにはあの娘の行うことを無理にひきとめるだけの位がない」
「こんなことに位なんかがいりますか」
「左様。私は百姓の倅に生れ、半生軍人であったが、藁にもぐって寝ることを志すような勇気ある決断を選ぶことを知らなかった。あの娘に忠告するのは、私の身にあまることだと思うよ」
余は不覚にも泣きぬれてしまったのである。余の一生は、愚かのままに、すでに過ぎ去ってしまったのだ。もはや取り返すすべもない。
余は男子であり、軍人であったが、マリ子の如くに身を挺して事に処する態度に於ては全く欠くところがあったようだ。今日、老残の身をもてあましているのもいわれなきではない。わが過去に於てマリ子の片鱗だにあらば、なお救いのあろうものをと思った。
3
マリ子とその家族は土間の宿直室へ戻って住んだ。病人の弟だけは手製の寝台にふとんをしいてねているが、マリ子とその母は押入にねているとも云われ、土間に藁をしいてもぐりこんでいるとも云われ、諸説紛々であった。
羽生や根作らは意外の結果におどろいた。再
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