落付く当がなければ余の家の一室を提供してもよいと思った。
 マリ子は人々の好奇の的となることも、同情されることも気に入らなかったので、学校の周辺から姿をくらましていた。
 山際の禅寺に避難していたのである。余がそこを訪ねると、真っ先に顔を合せたのは先日の男教員で、彼は甚だしく憎悪をこめて余を睨んだ。彼は禅寺の下宿人であった。
「小学校の教員は犬ですか。土間で事務をとり、土間に藁をしいて宿直することになったそうですね。あなたは刑務所を見ましたか。人間の住むところは、牢屋でもちゃんと床がありますぜ。変な顔をしてますね。私の云うことが変梃に聴えますか」
 彼が犬属にあらざることを示威することには同感できるが、その見幕には同感ができない。それはたしかにほぼ犬的であった。戒厳令下の消防団員や村会議員と同じように、牙をむく犬にほかならぬと思った。
 余は犬に返答することを欲しないので、マリ子を探した。マリ子は人を避けて、裏の山に登ったという。裏の山は墓地であった。
 マリ子は墓石の一つに腰かけて、目玉をむいて、腕を組んでいた。近づく余をじっと見つめているから、余も苦笑した。
「今日はどこへ行っても睨まれるばかりさ」
「私のはたばこがきれてるせい」
 にこりともしない顔が、睨む目をそらして呟いた。
「私は御承知の如く無為無能の村長だから、村長たる力によってあなたに何もしてあげることができない。幸い私には夫婦二人には広すぎる屋敷があるから、部屋は自由に使っていただいてかまわないが」
 マリ子は余の差出したたばこを吸っていたが、
「そんなに困っているように見える?」
「困っているように見受けられるが」
「やせ我慢はよした方がいいかな。でも、もっと困ったことだって、十回や二十回にきかなかったわよ。今まで生きてくるのに。今日なんか、私がこうしてぼんやりしてると、誰かがきて、みんなしてくれて、たばこもくれる人があるし、なんでもない方よ」
「やせ我慢じゃないかね」
「そうでもないらしいわ。私はね。むしろ羽生助役に感謝してるんです。土間の藁にもぐりこんで眠ることを教えてくれたから。ふとんだのたたみなんて、たたんで押入へ片づけることができたり、掃いたりするのに便利なだけだ。私がゆうべたたみの上のふとんにねたか、土間の藁にもぐりこんでねたか、誰に分るものですか。私でなくて、王様の場合だって、そうですよ。王様がふとんをひッかぶってねていたり、お尻だけだして便所にしゃがんでいたりするの、おかしいわよ。土と藁の中から目をさまして這い出してくる方が、よっぽど王様らしいや」
「私も自棄を起した覚えはあるが、結局熱湯はやけどするばかりで、飲むことも浴びることもできないのだね。生きるためにはぬるま湯に限るものだ。無為無能と観ずればたたみの上で平凡に夢が結べる」
「おじさま。お子さまは?」
「嫁に行ったよ。死んだ男もいる」
「この前、いつ、使ったのかな。おじさまなんて言葉。甘えたくなったのかしら。人をだます力が欲しいや」
「私の家へきて、休養しなさい」
「駄目なんです」
「なぜだね」
「土と藁の中から目をさまさなければいけないから。時々、たばこいただきに行きますわ。藁の中で見た夢、話してあげましょう。おばさまに、よろしく」
 マリ子は背のびを一つして、立ち去ったのである。
 余は墓地から山径をとって家へ戻った。道々余はマリ子ならびにその家族を無理にもわが家へ案内すべきではなかったかと後悔したが、余の語る話をきいた家人が、
「どうして御案内なさらなかったのですか。私が行ってお連れ致して参りましょう」
 と立ち上りかけるのを見ると、余の心は変ったのである。
「放っておきなさい。悲しいかな。私たちにはあの娘の行うことを無理にひきとめるだけの位がない」
「こんなことに位なんかがいりますか」
「左様。私は百姓の倅に生れ、半生軍人であったが、藁にもぐって寝ることを志すような勇気ある決断を選ぶことを知らなかった。あの娘に忠告するのは、私の身にあまることだと思うよ」
 余は不覚にも泣きぬれてしまったのである。余の一生は、愚かのままに、すでに過ぎ去ってしまったのだ。もはや取り返すすべもない。
 余は男子であり、軍人であったが、マリ子の如くに身を挺して事に処する態度に於ては全く欠くところがあったようだ。今日、老残の身をもてあましているのもいわれなきではない。わが過去に於てマリ子の片鱗だにあらば、なお救いのあろうものをと思った。

       3

 マリ子とその家族は土間の宿直室へ戻って住んだ。病人の弟だけは手製の寝台にふとんをしいてねているが、マリ子とその母は押入にねているとも云われ、土間に藁をしいてもぐりこんでいるとも云われ、諸説紛々であった。
 羽生や根作らは意外の結果におどろいた。再
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