話にはならなかった筈なのである。
フランスにフィガロという都新聞のような新聞がある。「ゼビィラの理髪師」や「フィガロの結婚」のフィガロから来た名称らしく、なぜ私が笑うかって言うのですかい。笑わないと泣いちゃうからさ、というフィガロの科白が題字のところに刷りこんである。(多分そうだったと思いますよ)「ゼビィラの理髪師」や「フィガロの結婚」は却々《なかなか》の名作だが、ここに引用したような笑いの精神は、僕のとらないところである。世之助の武者振りや源内先生の戯作には、そういうケチな魂胆がない。
一言にして僕の笑いの精神を表わすようなものを探せば、「浜松の音は、ざざんざあ」という太郎冠者がくすねた酒に酔っぱらい、おきまりに唄いだすはやしの文句でも引くことにしようか。「橋の下の菖蒲は誰が植えたしょうぶぞ。ぼろおんぼろおん」という山伏のおきまりの祈りの文句にでもしようか。それ自体が不合理だ。人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは
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