い果してしまうまでは選り好みなしにO・Kだ。否定の精神がないのである。すべてがそっくり肯定されているばかり。泥棒も悪くないし、聖人も善くはない。学者は学問を知らず、裏長屋の熊さんも学者と同じ程度には物識りだ。即ち泥棒も牧師くらい善人なら、牧師も泥棒くらい悪人なのである。善玉悪玉の批判はない。人性の矛盾撞着がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまで行っても、ただ肯定があるばかり。
道化の作者は誰に贔負も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する以外には何等の感傷もない木像なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたわらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。ふられる奴は散々ふられるばかりだし、みなしごは伯母さんに殴られ通しだ。そうかと思うと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起こして突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたわる精神があるわけじゃない。万事万端ただ森羅万象の肯定以外に何物もない。どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世
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