つて、あつちでクスリ、こつちでクスリ、一度にどつとはこなかつた。そこであくどい男がもう一人、今度は洗面器を持つてきて、禅僧の膝の前へ置いたものだ。さうして人々はどつと一時に笑ひころげた。
 禅僧は蒼白になつた。全身がぶるぶるふるえた。洗面器を掴んで投げつけやうとする気配が動きかけたほどであつたが、黙然と考へこんでしまつたのである。然し急に立ち上つた。さうして舞台へ歩いて行つた。舞台では夫婦の二人が芝居を中止して下の騒ぎを呆気にとられて見てゐたのだが、舞台へ片足をかけると禅僧の全身に獣的な殺気が走つたのだつた。彼はいきなり芝居の中の夫なる人物を舞台の下へ蹴倒した。それからお綱の背中にまはり、お綱を羽掻ひじめにしてよろ/\とうしろへ倒れ、腰に両足をまきつけてお綱を身動きもさせなかつた。
 一座はシンと静まつたが、禅僧は何事も叫ばなかつた。叫ばないも道理、彼のくぼんだ眼玉は死人のやうに虚しく見開き、口はあんぐりとあけられたまま息も絶えたやうであつた。暫く経て数名の人が舞台へ上つてみると、禅僧は折れ釘のやうなたど/\しさでお綱にまきつけた身体をほぐし、ぼんやり立ちあがると、黙つて外へでてしまつた。
 禅僧はその夜も勿論、べつに自殺をするやうなことはなかつた。翌日はけろりとして今迄通りの生活をつづけてゐたのだ。かういふ姿が獣であるのは他人も無論、彼自らも先刻医者に述べてるやうに知らない筈はなかつたのである。然しながらさういふ自分を意識すること、意識しながら生きつづけるといふことは、恐らく獣にはないことであらう。もとよりそれがどうしたといふたいした理窟ではないのだ。

 話を深刻めかしてはいけない。北方の山国に雪が降ると、毎日々々同じ炉端に集まる人達が、よもやまの話をするさういふ話題のひとつである。



底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第七巻第三号」
   1936(昭和11)年3月1日発行
初出:「作品 第七巻第三号」
   1936(昭和11)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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