けなからうと思ふのですよ」
「禅問答のやうに仰有《おつしや》らないで下さいよ! 五十円の結納金なら明らかに人間の方式ですぜ。獣の方式なら今迄通り山の畑でお綱とねる方がいいでせう。さうして、それ以上の名案は絶対にみつかりつこありませんや。全くですよ! 仰有る通り獣になりなさい、獣に。人間にならうなんて飛んでもない考へ違ひだ! さうして今迄通りの交渉で満足することが第一です」
 禅僧が自ら獣と言つた言葉を医者は面白いと思つた。お綱の畑は村の西と北角の山ふところに十数町の距離をおいて散在したが、お綱の姿を探して段々畑をうろ/\と距離一杯にうろついてゐる坊主の姿を山の人々は見馴れてゐた。言はれた言葉で思ひだすと、飢えた狼のやうに見えた。あまりに生々しく醜怪だと医者は舌打したのであつた。

 然し坊主が自ら獣と言つた言葉は、医者が単純に肯定した程度の生やさしい内省から生れたものではなかつたのである。
 或る黄昏禅僧はお綱と二人でどんよりと澱んだ古沼のふちを通つてゐた。突然お綱の手が彼の腰へ触つたやうな気がすると(実際は触らなかつたらしい)彼はもう古沼の中へ突き落されるのだと思つた。悲鳴をあげるにも喉がつまつて叫びがでなかつた。苦悶のために表情は歪み、足は竦んで動けなかつた。ヒイ/\といふ掠れた悲鳴が喉にうなつた。これだけの物々しい前奏曲があつたために、お綱もつひ突き落す気持になつたのである。それほどの力をいれて突いたわけでもなかつたのに、坊主はあつけなく古沼へ落ちた。水の中での死にものぐるひの騒ぎといつたらなかつたのである。死を怖れる最も大きな苦悶と醜体がかたどられてゐた。坊主のもがいてゐた場所は岸から三尺ばかりのところで、落付いて腕をのばせば子供でも溺れる心配のない場所である。彼が恐らく全身のエネルギーを使ひきつた証拠には、漸く岸へ這ひあがると、這ひあがつたなりの腹這ひの恰好のまま、だらしなくのびてしまつて這ひづることもできなかつた。それを見ると、お綱の眼の光が全く変つた。真剣なものが全身にみなぎり、亢奮のために胸がふくれ、急に顔に紅味がさした。お綱は猿臂をのばして禅僧の襟首をとらへ、ずる/\とひきづつて今度は真剣に古沼の中へ頭の方から押し込んでしまほふとしたのである。禅僧はギャッといふ悲鳴をあげてお綱の片足にかぢりついた。お綱よ、命だけは助けてくれ! 死ぬのは怖い! 禅僧
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