メモを見ると、三高曰く、これだけは難解なりと云って示したのが、北村透谷。しらべてみると、これも明治初年に自殺した文士の一人である。自殺文士の元祖ともある。
 しかし、ああ無情の著者ビクトルユーゴーは、自殺者ではなかった。百科辞典を見ると、フランスの総理大臣までつとめた政治家であり文豪である。
「これが彼の政治熱の源泉かなア。しかし、先生の選挙演説にビクトルユーゴーもジャンバルジャンも出てきやしなかったな。芥川も太宰もでてこない。文学的な表現はなかった。彼がそれらの本から学んだものは一言といえどもなかったな」どうもしかしフシギだ。泣きながら「ああ無情」と喚いたのは、酔ッ払いの単なるウワゴトとは思われない。ふだん通俗な雑誌しか読まない男が、俄かに「ああ無情」や芥川や太宰を読むのはタダゴトではない。岩波文庫の北村透谷に至っては、新聞記者の寒吉が辛うじて名前を心得ていただけで、彼が自殺者であることすらも知らなかったほどの失われた過去の文士である。なんらかの重大な理由がなくて、三高がそれらの本を取り揃える筈がない。
「これらの東西の文学書に一貫した共通性があるのかなア。それが分ると謎がとけるかも知れないが、ワタクシは文学のことは心得が浅いのでな。そうだ。ひとつ、巨勢《こせ》博士にきいてみよう」
 巨勢博士というのは博士でもなんでもないが、妙テコリンな物識りで、彼と同年輩、まだ三十前の私立タンテイである。二三年前、不連続殺人事件という天下未曾有の怪事件を朝メシ前にスラスラと解決して一躍名をあげたチンピラである。
「あのチンピラ小僧め、案外マグレ当りがあるようだから、ひとつ相談してやろう」
 そこで寒吉は幼友達のタンテイ事務所へ駈けつけたのである。

          ★

 巨勢博士は寒吉の話を謹聴し、しきりに質問し、また熱心にメモをしらべた。
 そのうちに彼は次第に浮かれだした。
「君のメモの才能は見上げたものだね。いまに偉くなるぜ。新聞記者の王様になるかも知れないな。しかし、犯人はつかまらないから、タンテイ根性はつつしむのが身の為だ。せいぜいボクの智恵をかりに来たまえ。君のメモに結論の一行を書きたしてあげるよ。犯人の名前でね」
 寒吉は気をわるくした。このチンピラはどういうものか会うたびに胸がムカムカする。その過去の厳粛なる歴史の数々をようやく再確認して、しまった畜生メ
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