選挙のことは思いだすのもイヤです」
 夫人がそれをひきとって、
「四五日前に、選挙に使ったもの、みんな燃しちゃったんですよ。店の若い人達もモシャクシャしてるものですから、あれもこれも燃しちゃえで大騒ぎでしたよ。選挙事務所で使ったイステーブルまで景気よく燃しちゃったんです。ここの家じゃア有り余る物ですから燃しちゃっても平気のせいもありますけどさ」
 寒吉はハッとした。犯罪の跡を消すには煙にするに限ることは云うまでもない。
 しかし、四五日前といえば、いかにも日がたちすぎている。誰かの死体が発見されてからでも十日にはなる。犯罪を隠すためなら、もっと早く燃すべきだ。部屋の中を見廻すと、芥川や太宰の本はもう見られなくて、およそ通俗な雑誌類があるだけだ。
「芥川や太宰はもうお読みにならないのですか」こうきくと、夫人がそれに答えて、
「それも燃しちゃったんですよ」
 三高はフッフッと力のない笑声をたてた。苦笑であろう。
「変な本、ない方がいいわ。ふだん読みもしない本」
「選挙の時だけ読んだんですか」
「選挙前から凝りだしたんですけど、自殺した人の小説本ですッてね。面白くもない。でも、あの本だけは、私もあとで読んでみたかったわ。アア無情」
「アア無情?」
「ジャンバルジャンですよ。私も結婚前から、話にはきいていた本ですもの」
 寒吉は声がとぎれて出なくなってしまったのである。
「アア無情」それは酔ッ払ッて泣きだした三高のセリフではないか。三高は酔余のことで覚えがないのか、今までと変りなく、ちょッと苦笑しているだけである。
「あのときのセリフには深い曰くがあるらしいぞ」こう気がつくと、矢も楯もたまらない気持になり、寒吉はイトマをつげて大急ぎで自宅へ戻ると、メモをひらいた。

          ★

 その時のセリフは、メモに曰く、
「ああ無情、ああ……」
 三高泣く。また曰く、
「放さないでくれ。ああ無情、ああ……」
 三高手足をバタつかせて、もがき、また泣く。と書いてあった。それだけである。
 これだけでは、別に曰くがあるとは思われない。彼は速記の心得があるから、言葉のメモは正確の筈なのである。
「どうも、変だな。なんだってジャンバルジャンを読んだのだろう。それと芥川や太宰の小説と、どう関係があるのかな。ポチャ/\夫人は自殺者の小説だと云ったが、ほかのも自殺者の小説なのかな」

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