正しさの裏打ちで、悩むことが生き方の正しさの裏打ちで、だからこの思想、この小説はホンモノだといふ。文学の思想性を骨董品の鑑定のやうなホンモノ、ニセモノに限定してしまつた。おまけに、なぜホンモノであるかと云へば、飛躍がなく、戯作物がなく、文章自体が遊ばれてゐないこと、作者がその心を率直に(実は率直らしくなのだが)述べてゐること、それだけの素朴な原理だ。
 作者が悩んでゐるから、思想が又文学が真実だ。態度がマヂメだから、又、率直に真実をのべてゐるから、思想が又文学が真実だといふ。これは不当な又乱暴な、限定ではないか。素朴きはまる限定だ。
 俺が、かう思つた。かう生活した。偽りのない実感にみちた生活だ、といふ。さういふ真実性は思想の深さとは何の関係もない。いくら深刻に悩んだところで、下らぬ悩みは下らないもので、それが文学の思想の深さを意味する筈はなく、むしろ逆に、文学の思想性といふものをさういふ限定によつて断ちきつて疑ることを知らないところに、思想性の本質的な欠如、この作者の生き方の又文学の根本的な偽瞞がある。浅さがある。
 志賀直哉は本質的に戯作者を自覚することの出来ない作者で、戯作者の自覚と並立しうる強力な思想性をもたないのだ。かういふ俗悪、無思想な、芸のない退屈千万な読み物が純文学の本当の物だと思はれ、文学の神様などと云はれ、なるほどこれだつたら一応文章の修練だけで、マネができる、ほんとの生活をありのまゝ書けば文学だといふ、たかゞ小手先の複写だから、実に日本文学はたゞ大人の作文となり、なさけない退化、堕落をしてしまつた。
 たゞ生活を書くといふ、この素朴、無思想の真実、文章上の骨董的なホンモノ性、これは作文の世界であつて、文学とは根本的に違ふ。つまり日本文学には文学ならざる読物の流行と同時に、更にそれよりも甚しく、読物ですらもない作文が文学の如くに流行横行してゐたのである。戯作性の欠如が同時に思想性の欠如であつた。のみならず、その欠点をさとらずに、逆に戯作性を否定し、作者の深刻めかした苦悶の露出が誠実なるもの、モラルだといふ。かくして、みぢめ千万な深刻づらをひけらかしたり、さりげなくとりすました私小説のハンランとなつて、作家精神は無慙に去勢されてしまつたのだ。
 織田が可能性の文学といふ。別に目新らしい論議ではない。実はあまりにも初歩的な、当然きはまることなので、文学は現実の複写ではないといふ、紙の上の実在にすぎないのだから、その意味では嘘の人生だけれども、かゝる嘘、可能性の中に文学本来の生命がある、といふ。文学は人性を探すもの、より良き人生をもとめるものなのだから、可能性の中に文学上の人生が展開して行くのは当然なことで、単なる過去の複写の如きは作文であるにすぎず、文学は常に未来のためのものであり、未来に向けて定着せられた作家の目、生き方の構へが、過去にレンズを合せたときに、始めて過去が文学的に再生せられる意味をもつにすぎない。
 大阪の性格は気質的に商人で、文学的には戯作者の型がおのづから育つべきところであるから、日本文学の誠実ぶつた贋物の道徳性、無思想性に、大阪の地盤から戯作者的な反逆が行はれることは当然であつたらう。
 然し、大阪的な反逆といふのは、まことに尤もなやうで、然し、実際は意味をなさない。ともかく大阪といふところは、東京と対立しうる唯一の大都市で、同時に何百年来の独自な文化をもつてゐる。おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか粋といふものが正統であるとすれば、大阪は新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、東京の芸術が職人気質名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としてゐる。かくの如くに両都市が気質的にも対立してゐるのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於て行はれることも、一応理窟はある。
 然しながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与へうる一部の長所があるにしても、それはたゞその点に就てだけで、全部がさうであるわけでもなく、絶対のものではない。反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤から為さるべきものであつて、一大阪の地盤によつて為さるべきものではない。
 織田の可能性の文学は、たゞ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の具としてゐるまでの如くであるけれども、然し、織田の論理の支柱となつてゐる感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にさういふ対立の感情的な低さがある。
 それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じてゐるから。
 芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だといふ、これは鉄則ではないか。彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスを自らの作品に於て自ら作つた大阪弁に於て主張せず、実在する大阪弁に見出し主張してゐるのは矛盾である。
 文学は紙上以外に実体をもとめる必要はないものだ。谷崎が藤沢が各々の大阪弁をつくつてよろしいので、それが他の何物かに似てゐないといふことは、どうでもいゝ。
 織田は志賀直哉の「お殺し」といふ言葉が変だといふが、お殺しが変ではなく、使ひ方がヘタなのだらう。お殺しなど、愛嬌があつて面白く、私は変だと思はないし、だいたい作中人物の言葉などといふものは、言葉自体にイノチがあるのではなく、それがそれを使用する人物の性格生活と結びついて動きだす人間像の一つの歯車としてイノチも綾も美も色気も籠つてゐる。独立した言葉だけの美などといふのは、実は作文の領域で、文学とは関係のないことなのである。
 織田が二流文学といふときには、一流文学へのノスタルヂヤがある。二流などと言つてはいかぬ。一流か無流か、一流も五流も、ある必要はない。
 そして織田は、日本の在来文学の歪められた真実性といふものを否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対する大阪の地盤から、さういふ地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱として論理を展開してしまつた。
 私は先に坂田八段の端歩のことを言つた。これは如何にも大阪的だ。然し、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少くとも、この場合は、大阪の悪さなのである。なぜなら、木村名人の序盤に位負けしては勝負に負ける、序盤に位勝ちすること自体が力量の優位なのだから、といふオルソドックスの前では当然敗北すべき素朴なハッタリにすぎないのだから。木村名人のこの心構へは、東京の地盤とは関係がない。これは万国万民に遍在するたゞ真理の地盤に生れたものだ。
 私はいはゆるハッタリと称するものを愛してゐる。織田が暗闇の壇上でスポットライトに浮きあがつて一席弁じたり、座談会の速記にたゞ人を面白がらせる文句を書きこんだり、さういふ魂胆を愛してゐる。だが、それは、あくまで文学本来の生命を、それによつて広く深く高める意味に於てであり、そのための発散の効果によつてのことであつて、文学本来のイノチをそれによつてむしろ限定し低くするなら意味がない。坂田八段の端歩は、まさしくハッタリによつて芸術自体を限定し低めてしまつたバカ/\しい例であり、大阪の長所はこゝに於て逆転し、最大の悪さとなつてゐる。それは大阪といふものの文化的自覚が、真理の場に於て自立したものではなく、東京との対立に於て自立自覚せられてゐるからで、そこに大阪の自覚のぬけがたい二流性が存してゐる。かゝる対立によつて自立せられるものは、対立の対象が一流であれ何流であれ、本人自体は亜流の低さから、まぬかれることはできない。
 今日ジャーナリズムが大阪の反逆などといふのは馬鹿げてゐる。反逆は大阪の性格、大阪の伝統の如きものによつて、為さるべきものではない。文学は文学本来の立場によつてのみ反逆せられねばならぬ。
 織田は悲しい男であつた。彼はあまりにも、ふるさと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定されてしまつた。彼は坂田八段の端歩を再現してゐるのである。
 だが我々は織田から学ぶべき大きなものが残されてゐる。それは彼の戯作者根性といふことだ。読者を面白がらせようといふこの徹底した根性は、日本文学にこれほど重大な暗示であつたものは近頃例がないのだが、壇上のスポットライトの織田作は神聖なる俗物ばらから嘲笑せられるばかりであつた。
 まさしく日本文学にとつては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要なのだ。文学本来の本質たる厳たる思想性の自覚と同時に、徹底的にオッチョコチョイな戯作者根性が必要なのだ。かゝる戯作者根性が日本文学に許容せられなかつた最大の理由が、思想性の稀薄自体にあり、思想に対する自覚自信の欠如、即ちその無思想性によつて、戯作者の許容を拒否せざるを得なかつた。鼻唄をうたひながら、文学を書いてはいけなく、シカメッ面をしてシカメッ面をしか書くことができなかつたのである。
 我々が日常諸方に人々から同じことをやられてウンザリするのは、「私の身の上話は小説になりませんか」「私の身の上話をきいて下さい」といふことだ。さういふ身の上話は然し陳腐で、ありふれてゐて、きゝばえのある話などは、先づ、ないものだ。然し、それを笑ふわけには行かぬ。我々が知らねばならぬことは、身の上話のつまらなさではなく、身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、あらゆる人がその人なりに生きてゐる各々の切なさと、その切なさが我々の読者となつたとき、我々の小説の中に彼等がその各々の影を追ふことの素朴なつながりに就てである。純文学の純の字はさういふ素朴な魂を拒否せよといふ意味ではない。たゞ、如何に生くべきか、思想といふものが存してゐる、その意味であり、それに並存して、なるべく多くの魂につながりたいといふ戯作者がゐる。あらゆる人間の各々のいのちに対する敬愛と尊重といたはりは戯作者根性の根柢であり、小説の面白さを狙ふこと自体、作者の大いなる人間愛、思想の深さを意味するものでもあることを知らねばならぬ。
 孤高の文学といふ。然し、真実の孤高の文学ほど万人を愛し万人の愛を求め愛に飢ゑてゐるものはないのだ。スタンダールは、余の小説は五十年後に理解せられるであらうと。たしかに彼はさう書いてゐる。然し、それだけが彼の心ではない。彼はたゞちよつと口惜しまぎれに、シャレてみただけだ。五十年後の万人に理解せられるであらう、と。五十年後でなくたつて、構はないにきまつてゐるのだ。
 日本文学は貧困すぎる。小説家はロマンを書くことを考へるべきものだ。多くの人物、その関係、その関係をひろげて行く複雑な筋、さういふ大きな構成の中におのづと自己を見出し、思想の全部を語るべきものだ。
 小説は、たかゞ商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、又、小説は商品ではないと言ひきることもできるのである。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「改造 第二八巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
初出:「改造 第二八巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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