があつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じてゐるから。
 芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だといふ、これは鉄則ではないか。彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスを自らの作品に於て自ら作つた大阪弁に於て主張せず、実在する大阪弁に見出し主張してゐるのは矛盾である。
 文学は紙上以外に実体をもとめる必要はないものだ。谷崎が藤沢が各々の大阪弁をつくつてよろしいので、それが他の何物かに似てゐないといふことは、どうでもいゝ。
 織田は志賀直哉の「お殺し」といふ言葉が変だといふが、お殺しが変ではなく、使ひ方がヘタなのだらう。お殺しなど、愛嬌があつて面白く、私は変だと思はないし、だいたい作中人物の言葉などといふものは、言葉自体にイノチがあるのではなく、それがそれを使用する人物の性格生活と結びついて動きだす人間像の一つの歯車としてイノチも綾も美も色気も籠つてゐる。独立した言葉だけの美などといふのは、実は作文の領域で、文学とは関係のないことなのである。
 織田が二流文学といふときには、一流文学へのノスタルヂヤがある。二流などと言つてはいかぬ。一流か無流か、一流も五流も、ある必要はない。
 そして織田は、日本の在来文学の歪められた真実性といふものを否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対する大阪の地盤から、さういふ地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱として論理を展開してしまつた。
 私は先に坂田八段の端歩のことを言つた。これは如何にも大阪的だ。然し、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少くとも、この場合は、大阪の悪さなのである。なぜなら、木村名人の序盤に位負けしては勝負に負ける、序盤に位勝ちすること自体が力量の優位なのだから、といふオルソドックスの前では当然敗北すべき素朴なハッタリにすぎないのだから。木村名人のこの心構へは、東京の地盤とは関係がない。これは万国万民に遍在するたゞ真理の地盤に生れたものだ。
 私はいはゆるハッタリと称するものを愛してゐる。織田が暗闇の壇上でスポットライトに浮きあがつて一席弁じたり、座談会の速記にたゞ人を面白がらせる文句を書きこんだり、さういふ魂胆を愛してゐる。だが、それは、あくまで文学本来の生命を、それによつて広く深く高める意味に於てであり
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