学は現実の複写ではないといふ、紙の上の実在にすぎないのだから、その意味では嘘の人生だけれども、かゝる嘘、可能性の中に文学本来の生命がある、といふ。文学は人性を探すもの、より良き人生をもとめるものなのだから、可能性の中に文学上の人生が展開して行くのは当然なことで、単なる過去の複写の如きは作文であるにすぎず、文学は常に未来のためのものであり、未来に向けて定着せられた作家の目、生き方の構へが、過去にレンズを合せたときに、始めて過去が文学的に再生せられる意味をもつにすぎない。
大阪の性格は気質的に商人で、文学的には戯作者の型がおのづから育つべきところであるから、日本文学の誠実ぶつた贋物の道徳性、無思想性に、大阪の地盤から戯作者的な反逆が行はれることは当然であつたらう。
然し、大阪的な反逆といふのは、まことに尤もなやうで、然し、実際は意味をなさない。ともかく大阪といふところは、東京と対立しうる唯一の大都市で、同時に何百年来の独自な文化をもつてゐる。おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか粋といふものが正統であるとすれば、大阪は新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、東京の芸術が職人気質名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としてゐる。かくの如くに両都市が気質的にも対立してゐるのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於て行はれることも、一応理窟はある。
然しながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与へうる一部の長所があるにしても、それはたゞその点に就てだけで、全部がさうであるわけでもなく、絶対のものではない。反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤から為さるべきものであつて、一大阪の地盤によつて為さるべきものではない。
織田の可能性の文学は、たゞ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の具としてゐるまでの如くであるけれども、然し、織田の論理の支柱となつてゐる感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にさういふ対立の感情的な低さがある。
それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるもの
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