《しみじみ》有難かったのである。
「兄貴は、さすがだ」
馬吉はテレかくしに、英雄らしく振舞って、一平に握手をもとめたが、
「よせやい。ふざけるな」
と、つきとばされてしまった。
「なんだい。ひでえな。ゲラ/\笑っていたくせに、感謝のマゴコロをヒレキすれば、つきとばすなんて、面白くないよ。オレだって、あんなことはしたくないよ。然し、あのほかに、やるとすりゃ、泥棒か人殺しじゃないか。男だって、パン助もやりたくなろうじゃないか」
「バカ野郎。舞台の上からチョイトなんてパン助いるかい」
「あんなこといってらア。天下の往来の方が、なお、よくねえよ」
「クビだア。出て行け」
「慌てるなよ。こっちの都合だってあるじゃないか。クビは仕方がないけど、出て行けはないでしょう。営業妨害はいけねえよ」
現代はまさしく前途に何事が起るか予測を許さぬ時代であるが、馬吉の前を希望は素通りしてしまったのである。客席の廊下をブラブラしてみたが、何事もない。退歩主義も相当困難な事業らしい。
残る方法は、泥棒であるが、切符売場の扉をあけて、
「やア、お精がでるね」
とはいって行くと、ふだんは一人で働いている売子が、今日は助手が一人、おまけに掃除婦の婆さんが目の玉をむいて突ッ立っており、ギロリと馬吉を一睨み、
「ダメだよ。ちゃんとオフレが来ているよ。ヘッヘッヘ」
「エッヘッヘ」
と馬吉も苦笑した。引返して、楽屋へ上ろうとすると、階段の上り口に楽屋番が立っていて、
「いけねえよ。オヌシを上げちゃアいけないてえオフレがでゝるよ」
「冗談じゃないよ。荷物が置いてあるじゃないか」
「エッヘッヘ。オヌシが着たきり雀だてえことは、この小屋で誰知らぬ者もないわさ」
馬吉は舞台裏へノソノソと歩いて行って、道具の陰へひッくりかえった。何か盗んで行かなくては、さし当っての腹がもたない。ガラスでも何でも構うことはない。まず一ねむり、彼はグウグウねむったのである。泥棒でも人殺しでも、いつでもできる冷静な心境であった。
★
馬吉は横ッ腹を蹴られて目をさました。相手は道具方の熊さん、この小屋随一の腕ッ節であるから、歯が立たない。
「オイ、よせよ。蹴らなくッたっていいじゃないか。今起きるよ」
「邪魔だから、消えて失せろい」
馬吉は渋々起き上ったが、熊さんはツマミだしかねまじき殺気立った見幕であるから、馬吉は益々物欲しくなるばかりである。
「なア、熊さん。ホーバイのヨシミじゃないか。センベツ包んでくんないか」
「よしやがれ。消えて失せろといったら、分らねえのか」
馬吉はあきらめて歩きだした。どうも仕方がない。どうせ盗むなら、勝手知ったるこの小屋が心易くていいのだが、監視厳重だから、どうにもならない。出口に楽屋番が睨みつけて、早く出て行けという気勢をすさまじく示している。
「なア、オイ。ヨシミじゃないか。いくらか包んでくれねえか、センベツよ。恩にきるよ」
どうせムダとは分っているが、思うことは言ってみる必要がある。楽屋番は返事の代りに裏口の扉をあけて、彼の襟クビをつかんで、突き放した。彼がよろけているうちに、扉がしまった。そんなことは、もう、問題ではない。
彼は柄にもなくヨシミだのホーバイだのといったことに気がついてキマリの悪い思いをした。義理人情はつまらぬものだ。ドイツもコイツも見上げたサムライばかりである。人生はそういうものだ、と、彼は自分のウカツさを苦笑した。
さて、オレもサムライにならなきゃいけない。サムライとは何ぞや。椎名町帝銀犯人氏などがアッパレなサムライであろう。彼は路上に煙草の吸いがらを見つけて拾った。ライター屋のライターをちょッと拝借して火をつける。相済まん。許せよ。ライター屋の売子はちょッと可愛い娘である。ビックリして目の玉を大きくしている。ちょッとカラカイたくなって、ライターを、ポケットへ入れる。アッと叫びそうになる。
「ヘッヘッヘ。うそだい」
ライターを置いてニヤリとウインク。いきなり、コツンとなぐられた。
「おい、よせよ。冗談じゃないか」
「なめたマネしやがると、たゞはおかねえぞ」
相手は二人。ライター屋の隣の店の店員らしい。ライター屋の娘に威勢の良いところを見せたいのかも知れない。
「ヘッヘッヘ」
馬吉は無抵抗主義である。退歩主義と共通のもので、進取の気象などゝいうハデなものがなくなれば、誰しもそうなる文明の極致なのである。
彼はうまいことに気がついた。品川一平のアパートへ行く。監理人からカギをかりる。昨日まで同居していた仲であるし、ここまでオフレがまわっている筈はないから、疑われる心配はない。うまうまと成功した。
「エッヘッヘ。とにかく、あいつは甘いよ。みんな目クジラ立てている最中に、あいつだけゲラ/\笑ってい
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