を噤んだ)然り! 何たることである! (そして彼は水をのんだ)実に何たることではないか! 彼女は死んだ! 驚いたではないか! 驚いた! ほんとうに驚いたか! 本当に驚いた! (と、斯ういふ言葉に驚いたのは彼自身であつた。彼は片側の重立ち連へ救ひをもとめる眼差を投げた。しかし彼等は校長の言葉にもはや充分興奮しはじめてゐたので、彼の視線を寧ろ怪訝な表情でもつて見返した。校長は苛々して、併し今度は悲痛な情熱をしぼると、眼さへ瞑つて絶叫しはじめた――)親愛なる諸君! そもそも人間は婚礼の日に死んでいいか! 否否否! しかるに彼女は死んだ! 呆れかへつたではないか! 呆れた! かりに諸君! 諸君は婚礼の日に死にたいと思ふであらうか! 断然否! 余は如何なる日にも死にたいとは思はんのである! しかるに彼女は死んだ! 殆んど奇怪ではないか! 奇怪である! 余はなさけない! 余は営々として育英事業に尽瘁《じんすい》することここに三十有余年、此の如きは真にはじめてのことではないか! 実にはじめてのことである! しかりとせば諸君! 蓋し三十有余年目の奇怪事ではないか! 三十有余年前に果して此の如き事があつたか! 分らない! しからば諸君! 開闢以来の奇怪事かも知れんではないか! WAH! 諸君! 日本が危い! うつかりすると日本は危険だ!」
 と、斯う言はれた時に満場の聴衆はドキンとした。それよりもドキンとしたのは校長自身であつた。彼は自分の結論に痛々しく感激して劇しく胸をかきむしつてゐたが、突然身をひるがへして演壇を落下すると、ハラ/\と涕泣《ていきゅう》して椅子に崩れた。生憎偉大な校長は当面の大事には何の名案も与へぬうちに感激しすぎたのである。つづいてざわざわと群衆の頭がゆれはじめた。まつたく、たかだか二百三十六名で未曾有の国難をしよひきることは心細いに違ひない。荷の勝ちすぎた熱情は長続きのしないものだ。彼等の情熱はどうやら当面の村難へ舞ひ戻つたのである。
 そこで、芸術家の頭をした一人の青年訓導が、沈着を一人で引受けた足どりで演壇へ登つた。この騒動に落付きといふこと、それだけでも已に甚大な驚異であるから、彼の姿を見ただけで、もう人々は重みのある心強さを感じた。
「みなさん! (と、彼は先づ柔らかい言葉を用ひた)今回の突然の出来事が未曾有の大事であることは偉大な校長先生のお話によつて良くお分りのことと思ひます。が、婚礼の当日お熊さんが亡くなられた不思議な出来事は已にしつかりした事実であつて、婚礼とお通夜と、生憎この二つは今更どうすることも出来ない。そこで、当面の問題として婚礼もよしお通夜もよしといふ便利な手段を考案しなければならんのである。(と斯う言つたとき満場は殆んど夢心持で同感の動揺を起した)私は斯う考へるのである、諸君! (と、今度はきつい言葉を用ひた)婚礼は男女に関する儀式であつて、これは別に問題はないが、本日の亡者はお熊さんと呼ばれ、寒原半左右衛門の母であり、かつまた故一左右衛門の妻であつた事実からしても、私はこれを女と判断したいのである。とすれば、我が国の淳良な風俗によつても、これは必ず女が通夜に行かねばならん! 亡者が女であるならば、何故女が通夜に行かねばならんか? 何んとなれば、彼女が男であるならば男が行かねばならんからである。かつ又彼女が男であるならば男が行つたに相違ないではないか! しかるに彼女は女であつた。故に女が行かねばならんのである! つまり、わが村の婦人はお通夜へ、わが村の男子は婚礼へ、行かねばならんのである!」
 と、斯う結んで彼が降壇するときに、満場の男子は嬉しさのあまり思はず額をたたいたりして発狂するところであつた。が、まだ降りきらないうちに、数名の女教員が一斉に壇上へ殺到した。彼女等は口々に男性を罵りながら、自分一人が演説しやうとして、壇上で激しい揉み合ひをはじめた。満場の男女は総立ちになつて、今にも殺伐な事件が起りさうに見えたのである。もしも賢明な医者が現れなかつたとしたら、このおさまりは果してどうなつたか知れたものではない。
 医者――この事件の口火を切つた医者――あの男は、軽率な口がわざわひして此の日は国賊のやうに言はれてゐたが、決して悪い人間ではなかつたのである。注射――もちろん其れもある。併し概してこの場合には、注射それ自身の問題であつて、彼自身としては毫も殺人の意志はなかつた。してみれば彼に全く落度はない。実際彼は善人であつた。そして、医学の方では諦らめてゐたが、医学以外のことでは村のために一肌ぬぎたい切実な良心を持つてゐたのだ。――そこで此の好人物は両手を挙げて騒然たる会場を制しながら壇上へ登つた。つづいて、くねくねした物慣れた手つきで掴み合ひの女教員を引き分けたのである。と、この深刻な手つきは、流石の女傑たちも唖然として力を落してしまふほど、精神的魅力に富んでゐた。そこで彼は踊るやうな腰つきで斯う演説をはじめた。
「みなさん! しづまりたまへ! 不肖医学士が演壇に登りましたぞ! 医学士が登壇したからしづまれ! 安心なさい! (と斯う叫んだが、実は本当の医学士ではなかつたのである)みなさんは医学を尊敬しなければなりません。何んとなれば医学は偉大であるからである。それ故医学者を尊敬しなければならんのである。みなさんは素人であるから、素人は偉くない。不肖は医学士であるから、不肖の言葉は信頼しなければならん。そこで(と、彼は一段声を張りあげた)医学の証明するところによれば、寒原家の亡者は一日ぶん生き返つたのである! (と、斯う言われた聴衆は彼の言葉を突瑳《とっさ》に理解することができなかつた)諸君! 偉大極まる医学によれば、人には往々仮死といふことが行はれると定められてある。今朝お熊さんは死んだ。これは事実である。今、お熊さんは生き返つた。これも事実である。明日、お熊さんは死ぬのである。これまた事実以外の何物でもあり得ない。諸君、医学は偉大であるから医学を疑ぐつてはならない。だから医学者を尊敬しなければならん。亡者は一日ぶん生き返つた! お通夜は明晩まで延期しなければならんのである!」
 おそらく我が国で医学の偉大さを最も痛切に味つた者は、この時の村人たちに違ひない。すすりなく者もあつた。よろめく者もあつた。校長は、「おお、偉大な、尊敬すべき……」と斯う叫んだまま、医者の手に噛みついて慟哭した。そこで、喜びに熱狂した群衆はお熊さんの蘇生を知らせに寒原家へ練りだした――が、この珍らしい医学的現象の結果、寒原半左右衛門は果してどうなつたか?
「お峯や――」と、一方、それから十分ののちだが、寒原半左右衛門は門のざわめきに吃驚《びっくり》して女房に言ひかけた。「今時分からお通夜の衆が来られたわけではあるまいな。晩飯を出すとなると――わしは別にかまひはしないけれど、ねえ、お峯や……」
「わたしや知りませんよ! わたしや此家《ここ》の御主人様ではございませんからね! 出さうと出すまいと、あんたの胸一つですよ!」
 と、斯う言つてゐるうちに、騒がしいざわめきは庭一杯にぎつしりつまつてゐたのである。「万歳」といふ声もあつた。「お目出度う」と言ふものもあつた。中には、「偉大なる医学」とか「我等の医学士」なぞといふ理解に苦しむ言葉もあつた。まつたく、この村の歴史に於て医学が偉大であつたためしは嘗てなかつたことである。半左右衛門は極度に狼狽した。うつかりすると婚礼と通夜と取り違はれたことかも知れない。なんにせよ、薄気味悪い出来事である。そこで彼はおどおどして玄関へ出て行つたが、衝立《ついたて》から首を延ばしたとたんに、不可解至極な歓声にまき込まれてぼんやりした。
「わしはハッキリ分らんのだが……」と半左右衛門は泣きほろめいて手近かの男に哀訴した。「いつたい、生きたとかお目出度いとか、つまり何かね、わしが斯うして生きてゐるのがお目出度いといふことかね? そんならわしは、わしははつきり言ふが、お目出度いことはない!」
「へえ、まつたくで。(と一人が答へた)旦那の生きてることなんざ、お目出度くもありませんや。ありがたいことには、旦那、隠居が生き返つたと斯ういふわけでね。医学は偉大でげす。ねえ、先生!」
「然り!」と、偉大な医学者は進み出た。「当家の隠居は一日ぶん生き返つたのである。偉大な医学を信頼しなければならん! それ故偉大な医学士を信頼しなければならんのである!」
「婆さんが生き返つたと?」と、半左右衛門は吃驚して斯う訊いたが、「あ! 婆さんが生きた!」と、今度は突然雀躍りした。「婆さんが一日生きた! ありがたい。通夜は明晩にきまつたよ。婆さんが一日ぶん生き返つたとよ!」
「知りませんよ!」とこの時お峯は不機嫌な顔を突き出した。「お前さん方はなんといふ呑んだくれの極悪人の気狂ひどもだらう! うちの婆さんは朝から仏間に冷たくなつて寝てゐるんだよ!」
「それが素人考へといふもんだ!」人々は一斉にいきりたつて怒鳴つた。「医学といふものは偉大なものだ! 素人に分らんからして偉大なものだ!」
「お峯や、心をしつかり持たなければならんよ」と、半左右衛門も斯う女房をたしなめた。「なにせ医学といふもんはたいしたものでな。わしらに理解のつくことでない。偉い先生のお言葉には順《したが》はねばならんもんぢや」
 と、この言葉は成程語気は弱かつたが、いつもに似ない頑強な攻勢を窺ふことができたのである。恐らく彼は嬉しまぎれに後の祟も忘れてゐるに違ひない。してみると此の場はお峯の敗北である。そこでお峯は棄鉢《すてばち》の捨科白を叩きつけるといふ最も一般的な敗北の公式に順つて、自分の末路を次のやうに結んだ。
「何んだい、藪医者の奴が! 注射で人を殺した偉い先生があるもんかね!」
「いやいや、さういふもんでないぞ。(と。見給へ、半左右衛門はなほも攻勢をつづけるのである!)偉い先生のことだから患者は死ぬだけのことで助かつたといふもんでないか! これが素人であつてみい、どうなることか知れたもんでないぞ」
 とたんにお峯は鬼となつて部屋の奥へ消え失せた。――半左右衛門の後日の立場は全く痛々しいものに違ひない。熱狂した群衆の中にさへ半左右衛門に同情を寄せて、ないない気の毒な思ひをした者も二三人はあつたのだ。ところが半左右衛門自身ときては、益々有頂天になりつつあつた。彼は嬉しさのあまり身体の自由がきかなくなつて、滑りすぎる車のやうに、実にだらしなく好機嫌になつたのである。彼は揉み手をしながら、村の衆に斯う挨拶を述べた。
「わしもな、ないない一日ぶんがとこ何んとかしたいと考へとつたが、医学ちうものがこれほど偉大のもんだとは! なにせ学問のないわしのことでな。まさかに生き返るとは思ひよらないことぢやつた。なんとお目出度い話ぢややら……」
「旦那は孝行者ぢやからな。さうあらう……」と、木訥な一人が感激に目をうるませて叫んだ。「何よりお目出度い! これよりお目出度いことはない! 旦那、まづ何よりも祝ひの酒だよ!」
 酒! 驚いた! 迂闊にも程があるといふものだ! 吃驚した群衆は慌てふためいて叫んだ。
「祝盃だ! 隠居の誕生日! 酒! 酒々々々々々!」
「しかし……」と、半左右衛門は明らかにうろたへた。それから彼はひどくむつ! として、
「しかし、婆さんは死んどるわな!」と言つた。
「おや! 素人の旦那が! 旦那は何かね。自分の母親を一日早く殺さうといふ魂胆かね!」
 と、例の木訥な農夫は殆んど怒りを表はして斯う詰《なじ》つた。すると駐在所の巡査は、群衆の陰から肩を聳やかして、佩刀《はいとう》をガチャ/\いわせたのだ。半左右衛門はしどろもどろとなつたのである。
「わしは別に殺しはせんよ。婆さんは今朝から死んどるといふのに。……」
「おや! 誰が言ひましたかね!」
「医者が――」
「えへん!」
 と咳払ひをして医者は空を仰いだ。半左右衛門は口をおさへて、頬に泪を流したのである。進退全く谷《きわ》まつたのだ。突然、しかし必死の顔をあげると、彼は物凄い形相で慌た
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング