! わたしたちは高貴な身分どころではありませんからね!」
 弱気な半左右衛門が脆くもぺしやんこになつたのは言ふまでもない。
 事の起りに就ては医者が悪いといふ意見が専ら村に行はれてゐる。勿論彼の腕前に就ての批難ではない。彼の注射は早くから評判が高かつたので、どんなに熱の高い病人でも譫言《うわごと》や悪夢のなかで注射の針を逃げまわつてゐた。だから、その方面の間違ひは決して起る筈がなかつたのだ。問題は彼の口である。即ち、前段で述べたやうな会話がまだ寒原家の一室で取り交はされてゐる時分に、この宿命的な不幸はもはや村一面に流布してゐた。もし彼の口さへなかつたとしたら――弱気な、そのうへ酒と踊に異常な情熱をもつた諦らめの悪い半左右衛門は、思ひ出してはねちねちと拗ねて、短い秋の一日ぐらいはどうなつたか知れたものではない。
 さて、事の意外に驚いたのは、まづ森林寺の坊主であつた。今宵の祝宴に狙ひをつけた最大の野心家はこの坊主であつたかも知れない。言ふまでもなく此奴は呆れた酒好きであつた。おまけに、坊主といふものは宴席で誰よりも幅の利く身分であつて、「てへへん、これは結構な般若湯《はんにゃとう》でげす。やれやれ、わしどもの口には二度と這入るまい因果な奴でな」なぞと言ふことに由つて、一升や二升のお土産は貰へる習慣のものである。ところへ寒川家のおやぢときては実際気前が良かつたのだ。ところが一朝通夜ときたひには――鋭い読者はもはや充分見抜かれたに相違あるまいが、寒原半左右衛門ときては近在稀れなけちん棒であつた。拙! ところで不可解至極な通念によれば、坊主といふものは此の際婚礼をおいて通夜へ廻らねばならないといふ信じ難い束縛のもとに置かれてゐる! こうして、森林寺の坊主が唐突として厭世的煩悶に陥つたことには充分理由があつたのである。
 生れつき煩悶には不慣れな性質だつたので、肥満した彼の身体は内心の動揺をうまく押へたり隠したりできなかつた。つまり彼の逞ましい腕はいきなり彼の胸倉を叩いたり、あまり勝手が違ひすぎて施す方法がなかつたので、舌を出したりしたのである。が、劇しい努力の結果として会心の解決が彼を突然|雀躍《こおど》りさせた。身体がいつぺんに軽くなつた思ひがした。そこで彼は大急ぎで小僧を呼び入れたのだ。
「頓珍や。これや。もそつと前へ坐れや。よろこべよ。今夜はお前に一人前の大役を授ける
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