戦争に殺され、私は敗戦後の日本中あばたゞらけ、コンクリートの破片だの石屑だらけの面白さうな世の中に生き残つて、面白いことの仕放題のあげくに、私の可愛い男は戦争で死んだのさ、と呟いてみることを考へてゐた。それはしんみりと具合がとても良さゝうだつた。
私は然し野村が気の毒だと思つた。本当に可哀さうだと思つてゐた。その第一の理由、無二の理由、絶対の理由、それは野村自身がはつきりと戦争の最も悲惨な最後の最後の日をみつめ、みぢんも甘い考へをもつてゐなかつたからだつた。野村は日本の男はたとひ戦争で死なゝくとも、奴隷以上の抜け道はないと思つてゐた。日本といふ国がなくなるのだと思つてゐた。女だけが生き残り、アイノコを生み、別の国が生れるのだと思つてゐた。野村の考へはでまかせがなく、慰めてやりやうがなかつた。野村は私を愛撫した。愛撫にも期限があると信じてゐた。野村は愛撫しながら、憎んだり逆上したりした。私は日本の運命がその中にあるのだと思つた。かうして日本が亡びて行く。私を生んだ日本が。私は日本を憎まなかつた。亡びて行く日本の姿を野村の逆上する愛撫の中で見つめ、あゝ、日本が今日はこんな風になつてゐる、とりのぼせてゐる、額に汗を流してゐる、愛する女を憎んでゐる。私はさう思つた。私は野村のなすまゝに身体をまかせた。
「女どもは生き残つて、盛大にやるがいゝさ」
野村はクスリと笑ひながら、時々私をからかつた。私も負けてゐなかつた。
「私はあなたみたいに私のからだを犬ころのやうに可愛がる人はもう厭よ。まぢめな恋をするのよ」
「まぢめとは、どういふことだえ?」
「上品といふことよ」
「上品か。つまり、精神的といふことだね」
野村は目をショボ/\させて、くすぐつたさうな顔をした。
「俺はどこか南洋の島へでも働きに連れて行かれて、土人の女を口説いたゞけでも鞭でもつて息の根のとまるほど殴りつけられるだらうな」
「だから、あなたも、土人の娘と精神的な恋をするのよ」
「なるほど。まさか人魚を口説くわけにも行くまいからな」
私たちの会話は、みだらな、馬鹿げたことばかりであつた。
ある夜、私たちの寝室は月光にてらされ、野村は私のからだを抱きかゝへて窓際の月光のいつぱい当る下へ投げだして、戯れた。私達の顔もはつきりと見え、皮膚の下の血管も青くクッキリ浮んで見えた。
野村は平安朝の昔のなんとか物語の話を語つてきかせた。林の奥に琴の音がするので松籟《しようらい》の中をすゝんで行くと、楼門の上で女が琴をひいてゐた。男はあやしい思ひになり女とちぎりを結んだが、女はかつぎをかぶつてゐて月光の下でも顔はしかとは分らなかつた。男は一夜の女に恋ひこがれる身となるのだが、琴をたよりに、やがてその女が時の皇后であることが分り……そんな風な物語であつた。
「戦争に負けると、却つてこんな風雅な国になるかも知れないな。国破れて山河ありといふが、それに、女があるのさ。松籟と月光と女とね、日本の女は焼けだされてアッパッパだが、結構夢の恋物語は始まることだらうさ」
野村は月光の下の私の顔をいとしがつて放さなかつた。深いみれんが分つた。戦争といふ否応のない期限づきのおかげで、私達の遊びが、こんなに無邪気で、こんなにアッサリして、みれんが深くて、いとしがつてゐられるのだといふことが沁々わかるのであつた。
「私はあなたの思ひ通りの可愛いゝ女房になつてあげるわ。私がどんな風なら、もつと可愛いゝと思ふのよ」
「さうだな。でも、マア、今までのまゝで、いゝよ」
「でもよ。教へてちやうだいよ。あなたの理想の女はどんな風なのよ」
「ねえ、君」
野村はしばらくの後、笑ひながら、言つた。
「君が俺の最後の女なんだぜ。え、さうなんだ。こればつかりは、理窟ぬきで、目の前にさしせまつてゐるのだからね」
私は野村の首つたまに噛《かじ》りついてやらずにゐられなかつた。彼はハッキリ覚悟をきめてゐた。男の覚悟といふものが、こんなに可愛いゝものだとは。男がいつもこんな覚悟をきめてゐるなら、私はいつもその男の可愛いゝ女でゐてやりたい。私は目をつぶつて考へた。特攻隊の若者もこんなに可愛いゝに相違ない。もつと可愛いゝに相違ない。どんな女がどんな風に可愛がつたり可愛がられたりしてゐるのだらう、と。
★
私は戦争がすんだとき、こんな風な終り方を考へてゐなかつたので、約束が違つたやうに戸惑ひした。格好がつかなくて困つた。尤も日本の政府も軍人も坊主も学者もスパイも床屋も闇屋も芸者もみんな格好がつかなかつたのだらう。カマキリは怒つた。かんかんに怒つた。こゝでやめるとは何事だ、と言つた。東京が焼けないうちになぜやめない、と言つた。日本中がやられるまでなぜやらないか、と言つた。カマキリは日本中の人間を自分よりも不幸な目にあはせたかつたのである。私はカマキリの露骨で不潔な意地の悪い願望を憎んでゐたが、気がつくと、私も同じ願望をかくしてゐるので不快になるのであつた。私のは少し違ふと考へてみても、さうではないので、私はカマキリがなほ厭だつた。
アメリカの飛行機が日本の低空をとびはじめた。B29[#「29」は縦中横]の編隊が頭のすぐ上を飛んで行き、飛んで帰り、私は忽ち見あきてしまつた。それはたゞ見なれない四発の美しい流線型の飛行機だといふだけのことで、あの戦争の闇の空に光芒の矢にはさまれてポッカリ浮いた鈍い銀色の飛行機ではなかつた。あの銀色の飛行機には地獄の火の色が映つてゐた。それは私の恋人だつたが、その恋人の姿はもはや失はれてしまつたことを私は痛烈に思ひ知らずにゐられなかつた。戦争は終つた! そして、それはもう取り返しのつかない遠い過去へ押しやられ、私がもはやどうもがいても再び手にとることができないのだと思つた。
「戦争も、夢のやうだつたわね」
私は呟やかずにゐられなかつた。みんな夢かも知れないが、戦争は特別あやしい見足りない取り返しのつかない夢だつた。
「君の恋人が死んだのさ」
野村は私の心を見ぬいてゐた。これからは又、平凡な、夜と昼とわかれ、ねる時間と、食べる時間と、それ/″\きまつた退屈な平和な日々がくるのだと思ふと、私はむしろ戦争のさなかになぜ死なゝかつたのだらうと呪はずにゐられなかつた。
私は退屈に堪へられない女であつた。私はバクチをやり、ダンスをし、浮気をしたが、私は然し、いつも退屈であつた。私は私のからだをオモチャにし、そしてさうすることによつて金に困らない生活をする術も自信も持つてゐた。私は人並の後悔も感傷も知らず、人にほめられたいなどゝ考へたこともなく、男に愛されたいとも思はなかつた。私は男をだますために愛されたいと思つたが、愛すために愛されたいと思はなかつた。私は永遠の愛情などはてんで信じてゐなかつた。私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑つた。
私は密林の虎や熊や狐や狸のやうに、愛し、たはむれ、怖れ、逃げ、隠れ、息をひそめ、息を殺し、いのちを賭けて生きてゐたいと思つた。
私は野村を誘つて散歩につれだした。野村は足に怪我をして、やうやく歩けるやうになり、まだ長い歩行ができなかつた。怪我をした片足を休めるために、時々私の肩にすがつて、片足を宙ブラリンにする必要があつた。私は重たく苦しかつたが、彼が私によりかゝつてゐることを感じることが爽快だつた。焼跡は一面の野草であつた。
「戦争中は可愛がつてあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね」
「いよいよ浮気を始めるのかね」
「もう戦争がなくなつたから、私がバクダンになるよりほかに手がないのよ」
「原子バクダンか」
「五百|封度《ポンド》ぐらゐの小型よ」
「ふむ。さすがに己れを知つてゐる」
野村は苦笑した。私は彼と密着して焼野の草の熱気の中に立つてゐることを歴史の中の出来事のやうに感じてゐた。これも思ひ出になるだらう。全ては過ぎる。夢のやうに。何物をも捉へることはできないのだ。私自身も思へばたゞ私の影にすぎないのだと思つた。私達は早晩別れるであらう。私はそれを悲しいことゝも思はなかつた。私達が動くと、私達の影が動く。どうして、みんな陳腐なのだらう、この影のやうに! 私はなぜだかひどく影が憎くなつて、胸がはりさけるやうだつた。[#地付き](新生特輯号の姉妹作)
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「サロン 第一巻第三号」
1946(昭和21)年11月1日発行
初出:「サロン 第一巻第三号」
1946(昭和21)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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