を傾いたり、ゆれたり、駈けぬけて行き、私達の四方がだん/\火の海になり、やがて空が赤い煙にかくされて見えなくなり、音々々、爆弾の落下音、爆発音、高射砲、そして四方に火のはぜる音が近づき、がう/\いふ唸りが起つてきた。
「僕たちも逃げよう」
 と野村が言つた。路上を避難の人達がごつたがへして、かたまり、走つてゐた。私はその人達が私と別な人間たちだといふことを感じつゞけてゐた。私はその知らない別な人たちの無礼な無遠慮な盲目的な流れの中に、今日といふ今日だけは死んでもはいつてやらないのだと不意に思つた。私はひとりであつた。たゞ、野村だけ、私と一しよにゐて欲しかつた。私は青酸加里を肌身放さずもつてゐた漠然とした意味が分りかけてきた。私はさつきから何かに耳を傾けていた。けれども私は何を捉へることもできなかつた。
「もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?」
「死ぬのは厭だね。さつきから、爆弾がガラ/\落ちてくるたびに、心臓がとまりさうだね」
「私もさう。私は、もつと、ひどいのよ。でもよ、私、人と一しよに逃げたくないのよ」
 そして、思ひがけない決意がわいてきた。それは一途な、なつかしさであつた。自分がいとしかつた。可愛かつた。泣きたかつた。人が死に、人々の家が亡びても、私たちだけ生き、そして家も焼いてはいけないのだと思つた。最後の最後の時までこの家をまもつて、私はそしてそのほかの何ごとも考へられなくなつてゐた。
「火を消してちやうだい」と私は野村に縋るやうに叫んだ。「このおうちを焼かないでちやうだい。このあなたのおうち、私のうちよ。このうちを焼きたくないのよ」
 信じ難い驚きの色が野村の顔にあらはれ、感動といとしさで一ぱいになつた。私はもう野村にからだをまかせておけばよかつた。私の心も、私のからだも、私の全部をうつとりと野村にやればよかつた。私は泣きむせんだ。野村は私の唇をさがすために大きな手で私の顎をおさへた。ふり仰ぐ空はまッかな悪魔の色だつた。私は昔から天国へ行きたいなどゝ考へたゝめしがなかつた。けれども、地獄で、こんなにうつとりしようなどゝ、私は夢にすら考へてゐなかつた。私たち二人のまはりをとつぷりつゝんだ火の海は、今までに見たどの火よりも切なさと激しさにいつぱいだつた。私はとめどなく涙が流れた。涙のために息がつまり、私はむせび、それがきれぎれの私の嬉しさの叫びであつた。
 私の肌が火の色にほの白く見える明るさになつてゐた。野村はその肌を手放しかねて愛撫を重ねるのであつたが、思ひきつて、蓋をするやうに着物をかぶせて肌を隠した。彼は立上つてバケツを握つて走つて行つた。私もバケツを握つた。そしてそれからは夢中であつた。私達の家は庭の樹木にかこまれてゐた。風上に道路があり、隣家が平家であつたことも幸せだつた。四方が火の海でも、燃えてくる火は一方だけで、一つづゝ消せばよかつた。そのうへ、火が本当に燃えさかり、熱風のかたまりに湧き狂ふのは十五分ぐらゐの間であつた。そのときは近寄ることもできなかつたが、それがすぎるとあとは焚火と同じこと、たゞ火の面積が広いといふだけにすぎない。隣家が燃え狂ふさきに私達は家に水をざあ/\かけておいた。隣家が燃え落ちて駈けつけるとお勝手の庇に火がついて燃えかけてゐたので三四杯のバケツで消したが、それだけで危険はすぎてゐた。火が隣家へ移るまでが苦難の時で、殆ど夢中で水を運び水をかけてゐたのだ。
 私は庭の土の上にひつくりかへつて息もきれぎれであつた。野村が物を言ひかけても、返事をする気にならなかつた。野村が私をだきよせたとき、私の左手がまだ無意識にバケツを握つてゐたことに気がついた。私は満足であつた。私はこんなに虚しく満ち足りて泣いたことはないやうな気がする。その虚しさは、私がちやうど生れたばかりの赤ん坊であることを感じてゐるやうな虚しさだつた。私の心は火の広さよりも荒涼として虚しかつたが、私のいのちが、いつぱいつまつてゐるやうな気がした。もつと強くよ、もつと、もつと、もつと強く抱きしめて、私は叫んだ。野村は私のからだを愛した。鼻も、口も、目も、耳も、頬も、喉も。変なふうに可愛がりすぎて、私を笑はせたり、怒らせたり、悩ましたりしたが、私は満足であつた。彼が私のからだに夢中になり喜ぶことをたしかめるのは私のよろこびでもあつた。私は何も考へてゐなかつた。私にはとりわけ考へねばならぬことは何一つなかつた。私はたゞ子供のときのことを考へた。とりとめもなく思ひだした。今と対比してゐるのではなかつた。たゞ、思ひだすだけだ。そして、さういふ考へごとの切なさで、ふと野村に邪険にすることもあつた。私は野村に可愛がられながら、野村でない男の顔や男のからだを考へてゐることもあつた。あのカマキリのことすら、考へてみたこともあつた。何事でも、考へることは、一般に、退屈であつた。そして私は、ともかく野村が私のからだに酔ひ、愛し溺れることに満足した。
 私は昔から天国だの神様だの上品にとりすましたものが嫌ひであつたが、自分が地獄から来た女だといふことは、このときまで考へたことはなかつた。私たちの住む街は私たちの一町四方ほどの三ツの隣組を残して一里四方の焼野原になつたが、もうこの街が燃えることがないと分ると、私は何か落胆を感じた。私は私の周囲の焼け野原が嫌ひであつた。再び燃えることがないからだつた。そしてB29[#「29」は縦中横]の訪れにも、以前ほどの張合ひを持つことができなくなつてゐた。
 けれども、敵の上陸、日本中の風の中を弾の矢が乱れ走り、爆弾がはねくるひ、人間どもが蜘蛛の子のやうに右往左往バタ/\倒れる最後の時が近づいてゐた。その日は私の生き甲斐であつた。私は私の街の空襲の翌日、広い焼跡を眺め廻して呟いてゐた。なんて呆気ないのだらう。人間のやること、なすこと、どうして何もかも、かう呆気なく終つてしまふのだらう。私は影を見たゞけで、何物も抱きしめて見たことがない。私は恋ひこがれ、背後にヒビがわれ、骨の中が旱魃《かんばつ》の畑のやうに乾からびてゐるやうだつた。私はラヂオの警報がB29[#「29」は縦中横]の大編隊三百機だの五百機だのと言ふたびに、なによ、五百機ぽつち。まだ三千機五千機にならないの、口ほどもない、私はぢり/\し、空いつぱいが飛行機の雲でかくれてしまふ大編隊の来襲を夢想して、たのしんでゐた。

          ★

 カマキリも焼けた。デブも焼けた。
 カマキリは同居させてくれと頼みにきたが、私は邪険に突き放した。彼はかねてこの辺では例の少い金のかゝつた防空壕をつくつてゐた。家財の大半は入れることができ、直撃されぬ限り焼けないだけの仕掛があつた。彼は貧弱な壕しかない私達をひやかして、家具は疎開させたかね、この壕には蓋がないね、焼けても困らない人達は羨しいね、などゝ言つたが、実際は私達の不用意を冷笑してをり、焼けて困つてボンヤリするのを楽しみにしてゐたのだつた。カマキリは悪魔的な敗戦希願者であつたから、B29[#「29」は縦中横]の編隊の数が一万二万にならないことに苛々《いらいら》する一人であつた。東京中が焼け野になることを信じてをり、その焼け野も御叮嚀に重砲の弾であばたになると信じてゐた。その時でも、自分の壕ならともかく直撃されない限り持つと思つてをり、手をあげて這ひだして、ヨボ/\の年寄だから助けてやれ、そこまで考へて私達に得意然と吹聴して、金を握つて、壕に金をかけない人間は馬鹿だね、金は紙キレになるよ、紙キレをあつためて、馬鹿げた話さ、さう言つてゐた。だから私はカマキリに言つてやつた。この時の用意のために壕をつくつておいたのでせう。御自慢の壕へ住みなさい。
「荷物がいつぱいつまつてゐるのでね」
 と、カマキリは言つた。
「そんなことまで知りませんよ。私達が焼けだされたら、あなたは泊めてくれますか」
「それは泊めてやらないがね」
 と、カマキリは苦笑しながら厭味を言つて帰つて行つた。カマキリは全く虫のやうに露骨であつた。焼跡の余燼の中へ訪ねてきて、焼け残つたね、と挨拶したとき、あらはに不満を隠しきれず、残念千万な顔をした。そして、焼け残つたね、とは言つたが、よかつたね、とも、おめでたう、とも言ふ分別すらないのであつた。いくらか彼の胸がをさまるのは、どうせ最後にどの家も焼けて崩れて吹きとばされるにきまつてゐるといふことゝ、焼け残つたために目標になつて機銃にやられ、小型機のたつた一発で命もろとも吹きとばされるかも知れない、といふ見込みがあるためであつた。俺の壕は手ぜまだからネ、いざといふとき、一人ぐらゐ、さうだね、せゐぜゐ、あんた一人ぐらゐ泊めてやれるがネ、とカマキリは公然と露骨に言つた。
 私は正直に打開けて言へば、もし爆弾が私たちを見舞ひ、野村と家を吹きとばして私一人が生き残つても、困ることはなかつた。私はそのときこそカマキリの壕へのりこんで、カマキリの家庭を破滅させ、年老いた女房を悶死させ、やがてカマキリも同じやうに逆上させ悶死させてやらうと思つてゐた。それから先の行路にも、私は生きるといふことの不安を全然感じてゐなかつた。
 私は然し野村と二人で戦陣を逃げ、あつちへヨタ/\、こつちへヨタ/\、麦畑へもぐりこんだり、河の中を野村にだいて泳いでもらつたり、山の奥のどん底の奥へ逃げこんで、人の知らない小屋がけして、これから先の何年かの間、敵のさがす目をさけて秘密に暮すたのしさを考へてゐた。
 戦《いく》さのすんだ今こそ昔通りの生活をあたりまへだと思つてゐるけど、戦争中はこんな昔の生活は全然私の頭に浮んでこなかつた。日本人はあらかた殺され、隠れた者はひきづりだして殺されると思つてゐた。私はその敵兵の目をさけて逃げ隠れながら野村と遊ぶたのしさを空想してゐた。それが何年つづくだらう。何年つゞくにしても、最後には里へ降りるときがあり、そして平和の日がきて、昔のやうな平和な退屈な日々が私達にもひらかれると、やつぱり私達は別れることになるだらうと私は考へてゐた。結局私の空想は、野村と別れるところで終りをつげた。二人で共しらが、そんなことは考へてみたこともない。私はそれから銘酒屋で働いて親爺をだまして若い燕をつくつてもいゝし、どんなことでも考へることができた。
 私は野村が好きであり、愛してゐたが、どこが好きだの、なぜ好きだの、私のやうな女にそれはヤボなことだと思ふ。私は一しよに暮して、ともかく不快でないといふことで、これより大きな愛の理由はないのであつた。男はほかにたくさんをり、野村より立派な男もたくさんゐるのを忘れたためしがない。野村に抱かれ愛撫されながら、私は現に多くはそのことを考へてゐた。しかし、そんなことにこだはることはヤボといふものである。私は今でも、甘い夢が好きだつた。
 人間は何でも考へることができるといふけれども、然し、ずいぶん窮屈な考へしかできないものだと私は思つてゐる。なぜつて、戦争中、私は夢にもこんな昔の生活が終戦|匆々《そうそう》訪れようとは考へることができなかつた。そして私は野村と二人、戦争といふ宿命に対して二人が一つのかたまりのやうな、そして必死に何かに立向つてゐるやうな、なつかしさ激しさいとしさを感じてゐた。私は遊びの枯渇に苛々し、身のまはりの退屈なあらゆる物、もとより野村もカマキリもみんな憎み、呪ひ、野村の愛撫も拒絶し、話しかけられても返事してやりたくなくなり、私はそんなとき自転車に乗つて焼跡を走るのであつた。若い職工や警防団がモンペをはかない私の素足をひやかしたり咎めたりするとムシャクシャして、ひつかけてやらうかと思ふのだつた。
 けれども私の心には野村が可哀さうだと思ふ気持があつた。それは野村がどうせ戦争で殺されるといふことだつた。私は八割か九割か、あるひは十割まで、それを信じてゐたのだ。そして女の私は生き残り、それからは、どんなことでもできる、と信じてゐた。
 私は一人の男の可愛い女房であつた、といふことを思ひ出の一ときれに残したいと願つてゐた。その男は私を可愛がりながら
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