、近所の家は屋根も硝子《ガラス》も傷まなかつた。
 夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪つたので戦争を憎んでゐたが、夜の空襲が始まつてから戦争を憎まなくなつてゐた。戦争の夜の暗さを憎んでゐたのに、夜の空襲が始まつて後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのやうな深い調和を感じてゐた。
 私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかつたかと訊かれると、正直のところは、被害の大きかつたのが何より私の気に入つてゐたといふのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29[#「29」は縦中横]も美しい。カチ/\光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29[#「29」は縦中横]の爆音。花火のやうに空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども私には地上の広茫たる劫火《ごうか》だけが全心的な満足を与へてくれるのであつた。
 そこには郷愁があつた。父や母に捨てられて女衒《ぜげん》につれられて出た東北の町、小さな山にとりかこまれ、その山々にまだ雪のあつた汚らしいハゲチョロのふるさとの景色が劫火の奥にいつも燃えつづけてゐるやうな気がした。みんな燃えてくれ、私はいつも心に叫んだ。町も野も木も空も、そして鳥も燃えて空に焼け、水も燃え、海も燃え、私は胸がつまり、泣き迸しらうとして思はず手に顔を掩《おお》ふほどになるのであつた。
 私は憎しみも燃えてくれゝばよいと思つた。私は火をみつめ、人を憎んでゐることに気付くと、せつなかつた。そして私は野村に愛されてゐることを無理にたしかめたくなるのであつた。野村は私のからだゞけを愛してゐた。私はそれでよかつた。私は愛されてゐるのだ。そして私は野村の激しい愛撫の中で、色々の悲しいことを考へてゐた。野村の愛撫が衰へると、私は叫んだ。もつとよ、もつと、もつとよ。そして私はわけの分らぬ私ひとりを抱きしめて泣きたいやうな気持であつた。
 私達の住む街が劫火の海につゝまれる日を私は内心待ち構えてゐた。私はカマキリから工業用の青酸加里を貰つて空襲の時は肌身放さず持つてゐた。私は煙にまかれたとき悶え死ぬさきに死ぬつもりであり、私はことさら死にたいと考へてもゐなかつたが、煙にまかれて苦しむ不安を漠然といだいてゐた。
 いつもはよその街の火の海の上を通つてゐた鈍い銀色の飛行機が、その夜は光芒の矢のまんなかに浮き上つて私達の頭上
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