ものは書けるものではない。平安朝の昔の物語類が金になったか、ならなかったか、そんなこととは違うので、平安朝と現代とでは違う。現代では、そうだ。
 日本の道学先生は金になろうがなるまいが俯仰天地に愧《は》じざる良心的な仕事をしろ、とか、オカユをすすって精魂つくして芸にはげめ、名も金もいらないとか、まるでもう精神そのものの御談議で、芸ごとでも同様、名人気質と称して、やっぱり名も金も不純俗悪のようなことを言う。
 芸術の純粋性というものは、そんなところにあるのではなくて、心の励みを与える外部の力、条件が必要なものだ。それは芸術の才能の問題ではなく、人間の心や力というものが本来はかなく、たよりないものなのである。
 人間はたれしもウヌボレはある。落伍者でもウヌボレはある。然しそれは全く実体のないあだなウヌボレにすぎなくて、それがなければ首でもくくるより仕方がないからのはかない生きる手がかりにすぎない。ドストエフスキーほどの大天才でも人が才能を認めてくれるから自分の才能に「実際の」自信がもてたので、不遇時代のドストエフスキーは旺盛なウヌボレはもっていても本当の自信はなくて、だからただもう人真似ば
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