俗物性と作家
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)当《あて》がなければ
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       (上)

 先日高見順君の文芸時評に私の「逃げたい心」の序文の文章をとりあげて、作家は外部条件に左右されて、作品が書けたり書けなかったりするようではダメなので、作品は作家が書くべきもの、「もっとマシな作品」が書けるはずで、書けなかったなどというのはウソだ。能力がないから書けないだけだ、と言っているが、果してそんなものか、文学とか人生というものがそんなに必然的に動いて行ってくれるものか、これは高見君へのお答としてではなしに、日本在来の精神主義が常にかくの如きものであるので、かかる在来の通念に対して一言したい。
 雑誌社に通俗小説を強要されて、通俗小説しか書けないというのは作家の罪だということは、当り前のことで、古来傑作の半分ぐらいは雑誌新聞社の俗悪な要求に応じ、また作家自身の金銭の必要に応じて作られたもので、動機と作家活動とは別のものだ。チエホフの傑作は劇場主の無理な日限に応じて渋面つくりながらとりかかったものであるし、バルザックはただもう遊興のために書きま
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