よく書きまくつたのだらうと思ふ。本質的な法螺《ほら》吹であつた。何でも知らないといふことがない。何か人が話をしてゐると、ウム、それは、と云つて横から膝を乗り入れてくる。何でも知つてゐる。そして如何にも尤もらしく真に迫つて時々然るべき文献なども現れて疑ふべからざる論拠を明にしてくれるけれども、これがみんな嘘つぱちの出鱈目なのである。然るべき文献もでたらめだ。本の名前ぐらゐは本当でも、その中に彼の言つてゐるやうなことは決して書いてはないのである。けれども、彼の話は真実よりも真実に迫つて尤もらしく語られる。どこへでも旅行してゐる。誰とでも親友だ。けれどもみんな嘘なのである。彼は知らない親友に就て微細な描写や家庭生活や人となりやエピソードなど彷彿と目のあたり見るが如くに活写するが、これはみんなその時ふいに思ひついた彼の一瞬のイマージュにすぎない。
私が切支丹《キリシタン》の文献が手にはいらなくて困つてゐるとき、彼に会つてその話をすると、その文献ならなんとか教会にあつて、そこのフランス神父は友達で先日も会つて何についてどんな話をしてきたなどゝ清流の流れるごとく語りだすから、それはありがたい、さ
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