改めて草吉を呼んだ声もきこえた。
草吉は立ち上つてゐた。自分では強ひて落付いたつもりであつたが、たしかに急いで階段を降りた。階段を降りたところに廊下があつて便所があり、廊下の隣は二人の女が寝んでゐる六畳であつた。部屋はこのほかに入口の二畳が一間あるばかりである。
廊下へ降りついてみると、廊下に人影はない。六畳と境ひの障子もしめられてある。どうした、と、草吉が障子の外から声をかけると、自分の部屋へ跳び戻つて頭から蒲団を被つてゐると覚しい弥生の掠れた声がして、「便所の中よ」と言つた。
便所には燈火《あかり》がついてゐた。戸を開いてみると、当太郎が下一杯にうづくまつてゐた。首をくくつたのであつた。その縄が斬れて、落ちたのだ。草吉の目の先に一本の縄がだらりと吊り残りぶらついてゐたのだ。
二人の女は漸く怖々起き上つて細目に障子を開けたが、障子の奥から現れて来やうとはしない。草吉が屍体の上にかがみこんで、下一杯にひろがつた形の中から当太郎の顔の部分を探してゐると、
「とても医者へ行けないわ……」
と、ふるへる声で、弥生はもう懇願するやうに呟いてゐた。
顔をみつけて少し光の方へ壊してみると、口からか鼻からか流れ出たものが下の方にたまつてゐて、涙も流れてゐたし、顔は一面によごれてゐた。血のやうな黒いものも流れてゐた。ことぎれてゐるのだらうか? とにかく医者をよばう。……その考へが草吉の心に蘇みがへつたとき、同じ思ひを更に激しい恐怖と共に思ひだした二人の女は、両の眼をまとまりなく光らしてゐるばかりで、化石してゐるのだ。暫時さういふ沈黙がつづいたとき、下一杯にひろがつた形が、ねぢまげた顔のあたりから動きはじめたのであつた。
当太郎は生き返つた。意識を失つてゐたのだつた。
「生きてゐるんだよ」
と、自分を看まもる人々に教へるやうに、彼は嗄れた声で呻いた。然しいくらか動かしかけた頭も元の場所へ再びぐつたりもぐしてしまつて、一杯ひろがつた形のまま、また動かなくなつてしまつた。
「しくじつた! もう死ねない!」
と、彼はつづけさまに呻いた。
「君達が起きる前から正気づいてゐたのだ。君達が来てからのことも、みんな分つてゐたのだ。すこし睡むいのだ。いろ/\のことが分りかけたやうな気がしたんだよ。それももう分らなくなつてしまつたやうだ。とにかく、もう大丈夫なんだ。心配せずに寝床へひきとつてくれ。俺もすこし睡むりたいのだ」
然し三尺四方の床の上へ一杯ひろがつた形は、依然微動もしなかつた。そのまま数秒の時が流れた。彼は突然もく/\と起きあがりはじめた。起きあがつてしまふと、羽目板に両手を支え、暫く俯向いて目をつぶつてゐたが、
「お午《ひる》までねむらせてくれ」
と独話のやうに呟いておいて、急に振向いて、手探りでもするやうな恰好で動きはじめた。人々の顔は目につかないのか、その方には目をくれず、二階の寝床へあがつて行かうとした。
「顔を拭いて――」
と忍の叫ぶ声なぞも耳にはいらぬのであらう、ただ夕空の蟇のやうに階段を這ひ登つていつた。草吉はその後ろからついていつたが、汚いものをつけたのか、汚物を漏らしたのか、とにかく悪臭の堪えがたいものがあり、それが草吉の朦朧と痺れた頭に、人の死生喜怒哀楽は汚物の悪臭芬々たるが如く卑小にして醜しといふ感を与へた。
当太郎は二階へ登ると、いきなり寝床へころがりこみ、頭からすつぽり蒲団を被つた。然し草吉が一緒に登つてきたことを知ると、
「しくじつたよ。もうだめだ。もう死ねないよ……」
と蒲団の下から先刻と同じ言葉をもらした。ほんとに苦しくはないのか、医者をよぶ必要はないのかと草吉が尋ねると、ほんとに苦しくないのだ、お午まで静かに睡むつてゐたいのだと答へ、やがて顔から蒲団をとりのけて、正しい寝息をたてながら睡むりはじめた。そのときもはや夜は白々とあけはじめており、まだ太陽は昇らなかつたが、仄かな薄光が当太郎のよごれた顔にもかかつてゐた。
草吉がはじめて便所の戸をひらいたとき、さうしてそこに当太郎の屍体を見出したとき、彼の胸をまづ流れたものは、ここにも一人の愚かな奴、それがまさしく便所の中にころがつてゐるやうに一匹の息絶えた巨大な蛆虫、さうして、なんといふうるさい出来事であらう、といふ考へだつた。
ところが当太郎の生き返つた今となつて、改めて草吉の胸を流れたものは、ひややかな一つの悲しみであつた。たうてい医《いや》しがたく割切りがたい苦汁のやうな哀愁であつた。それに溺れ、濁水のやうな澱んだ流れに浸つてゐると、ある大いなる静かなものへ、ののしり、いきどほり、躍りかからうとする狂気の心も感じるのであつた。
長い時間がすぎてから草吉が階下《した》へ降りてみると、二人の女は各々の激しい放心に悩まされてゐた。
「どうして死ぬ気になつたんだらうね!」
と、忍は忿怒に眼を輝やかせて、くひつくやうに言つた。口惜しさうな顔付だつた。忍が異常に亢奮してゐることは、部屋の片隅へ縮むやうに坐りこみ、ちやうど腕組みでもしてゐるやうな角張つた形をしながら、ちよつとした身動きも容易でない様子から、それと分るのであつた。さういふ忍自身は、ここ数年のあひだ屡々《しばしば》死にたい気持に襲はれながら、自分の死相には全く気付かないのだつた。
「便所なんて、汚らしいよ! 死んでごらん、ほんとに蛆虫がぶらさがつてゐるんと変りがないよ」
忍はプン/\しながら叫んだ。
「死ぬにも便利だし綺麗な場所は方々にあるよ。全く気がきかないね、自分だつて臭くつて窮屈だらうにね」
「いいよ/\、お姉さんには分らないよ」
弥生が突然泣きほろめいて叫びはじめた。
「お姉さんに死ぬ人の気持が分つてたまるもんか! あたしだつて便所の中で死なうと思つたことが、なんべんもあつたわ!」
さういふと弥生は、ヒステリックな叫喚をあげて泣きだしてしまつた。
「いやだよ、便所の中、便所の中つて。野原のまんなかぢや死ねないもんかね!」
忍はシュミーズの上へ外套をひつかけ、素足に靴をつつかけたまま、朝食も終らないうちに散歩にとびだしてしまつた。
午すぎてから当太郎はめざめた。顔は激しく憔悴してゐたが、ふだんと変りない気楽な様子で、目覚めると間もなく帰つていつた。
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
その翌日のことだつた。夕食の時間までは何事もなかつた。
黝《くろ》ずんだ電燈の下で夕食も終ると、一日の心がやうやく帰つてきたやうな、遠い疲れと放心がわかるのだつた。すると、その時までは何の別状も見えなかつた弥生が、突然部屋の片隅ではりさけるやうに泣きだした。あまりにだしぬけなことであり、そのうへすさまじい泣声だつた。
「どうして藪さんは来てくれないの! こんなにあたしが待つてゐるのに!」
と弥生は叫んだ。
その時まではなんの涙やら皆目見当のつかなかつた草吉と忍は、その言葉でやうやくわけが分つてきた。弥生は当太郎の訪れを終日心ひそかに待ちわびてゐたのだ。夕食も終り、夜も落ち、どうやらその日は姿を見せさうもないと決まつてしまふと、たまらない気持になつたのだつた。然しかう判つてみても、この出来事は思ひもよらないものであつた。
当太郎がはつきり心をうちあけた日も、あんな人たよりないわと、弥生は躊躇なく二人の人に言つた。殆んど関心がもてないやうすであつた。ましてそれからの二ヶ月あまり不意に音沙汰がなくなつてしまふと、当太郎が落していつた幾らでもないしみ[#「しみ」に傍点]は弥生の心から跡形もなく立ち去つてしまひ、久方振りで南の旅から帰つてきても、弥生はなんのこだわりもなく無関心で、全てが過ぎ去つた様子であつた。新らたな変化は当太郎の自殺未遂から起つたのである。さうとしか思はれないのだ。
「へえ、そんなことを一日むつつり考へこんでゐたのかね! この娘《こ》は! 油断ができないね!」
忍はひどく面食つて、素つ頓狂な大声で叫んだ。
「だつて会ひたいんだもの」
弥生は涙をふいて言つた。
「会つてどうするのさ」
「どうするつて、会ふだけでいいのよ」
「首をくくられて、惚れたんかね。あんたも相当ないかものぐひだよ。結婚しませうつて言ふつもりなの?」
「ううん」
弥生は首を横にふつて、暫く俯向いて黙つてゐたが、独語を呟くやうに言つた。
「今迄と違つた気持で会つてみたいのよ。だつて、今迄はあんまりあたしが何も考へてゐなかつたわ。だから、考へながら会つてみたいのよ」
「あんたも相当にしよつてるよ。あんな自殺は、あんた一人のせゐぢやありませんからね。藪さんの自殺なんて、八幡の藪知らずでリュウマチの貉《むじな》が迷つてゐるやうなもんですよ。しよつちう気まぐれなんだからね。お前さん一人が迷はせてるんと思ふと、大変なまちがひなんですよ」
「それでもいいのよ。会つてみれば分ることぢやないの」
「さういふもんですかね! 勝手にしなさいよ!」
忍は癇癪を起しかけて立ち上つた。鏡のある方へ歩いていつたが、鏡をみずに、ねころがつた。
「昨日の今日だもの、藪さんだつて疲れたでせうよ。熱くらゐだして、今時分はうん/\唸つてるかもしれないよ」
「病気ならあたし看病に行くわよ……」
弥生は再び泣きださうとして、顫える笛の音《ね》のやうな細さで言つた。
「お兄さん! 藪さんをつれてきてよ!」
さう叫んで、弥生は再びけたたましい叫び声を発して泣きだしたのだつた。
「しやうがないね。藪さんちへ行つてきて下さいよ」
と畳の上へひつくりかへつた忍が言つた。
「うむ。行つてみるか」
草吉は唸りながら立ち上つた。
凍てついた夜の中へ歩きだした草吉は、自分の心に皆目目当のないことが、まもなく分つてきたのだつた。当太郎を訪ねたい気持は微塵もなかつたのだし、どこへ行きたい気持もなかつた。歩いてゐたい気持だけが分るのだつた。
幾つ目かの曲り角へ差しかかつた時は、碁会所へ行つてみやうかと思つた。然し遊びの相手をする見知らないの男のことを思ふと、すぐさま気持が滅入つてきた。ちやうどそこへ来かかつた親切さうな通行人を呼びとめて、自分の住居に近いあたりの出鱈目な番地を述べて道を尋ねた。生憎その男はこの界隈の地理を知らない人であつたが、草吉は悦ばしげになんべんとなくお辞儀をして別れることが愉しいのだつた。活動写真の看板を眺めに行かうかと考へてみたが、歩みは自然に暗い方へ向けられて、鉄道線路沿ひの、沼地のやうにじめ/\とした草原へ現れてゐた。線路を越した向ふ側に工場があつた。すでに全ての燈火は消え、夜空にくりぬかれた風洞のやうな、巨大な黒色の影となつてのしかかつてゐた。なぜか草吉はひかれるやうに四角な広い坂囲ひを一周した。大きな澱める虚しさが、草吉の心に休息に似た静かな愁ひを与へるのだつた。彼は心に呟いた。
――俺でさへあのほのぐらい線路へ今から横はりに行くこともわけがないのだ。さうしてそれが、単にこの巨大な風洞のやうな虚しい建物の影を見たからにすぎないといふのは、不思議なことだらうか。またその俺が、この巨大な風洞のやうな夜空の影を見たために港の酒場へ行つて女を膝にのせながら酒を呷つてゐたとしたら、それは不思議ではないのだらうか。…………
草吉の心はなぜか生き生きと浮きたつてきた。彼は自らの耳へきかせるやうに、声高に呟いた。
――あの風洞のやうな巨大な夜空の影を見て、さうして、死なうともしなければ港の酒場へ急がうともせず、かうしてただ暗い路を歩いてゐる俺の姿は、不思議ではないのだらうか。…………
草吉は暗闇の空へ顔を突きあげて笑つた。線路伝ひに停車場の方へ歩いて行つて、二三度暖簾をくぐつたことのある泡盛屋へはいつた。甘臭い、さうして癖のある液体を、無理に五杯のみこんだ。それから漸くのことで、当太郎を訪ねてみやうといふ心がたかまつてきたのだ。その時はもう九時であつた。
藪小路当太郎はかなり名の売れた割烹店の倅《せがれ》であつた。父親は死んでゐたから、本来なら相当に責任のある立場であつたが、店は専ら母親と妹がきり
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