路へ今から横はりに行くこともわけがないのだ。さうしてそれが、単にこの巨大な風洞のやうな虚しい建物の影を見たからにすぎないといふのは、不思議なことだらうか。またその俺が、この巨大な風洞のやうな夜空の影を見たために港の酒場へ行つて女を膝にのせながら酒を呷つてゐたとしたら、それは不思議ではないのだらうか。…………
 草吉の心はなぜか生き生きと浮きたつてきた。彼は自らの耳へきかせるやうに、声高に呟いた。
 ――あの風洞のやうな巨大な夜空の影を見て、さうして、死なうともしなければ港の酒場へ急がうともせず、かうしてただ暗い路を歩いてゐる俺の姿は、不思議ではないのだらうか。…………
 草吉は暗闇の空へ顔を突きあげて笑つた。線路伝ひに停車場の方へ歩いて行つて、二三度暖簾をくぐつたことのある泡盛屋へはいつた。甘臭い、さうして癖のある液体を、無理に五杯のみこんだ。それから漸くのことで、当太郎を訪ねてみやうといふ心がたかまつてきたのだ。その時はもう九時であつた。
 藪小路当太郎はかなり名の売れた割烹店の倅《せがれ》であつた。父親は死んでゐたから、本来なら相当に責任のある立場であつたが、店は専ら母親と妹がきり
前へ 次へ
全43ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング