うしまひに同棲してしまつた。山猫には始めから言ひ寄りもしないし、山猫の方でも贋病人を眼中に入れてゐなかつた。
 好きでもない女と同棲して二月《ふたつき》すぎると、自分でもわけが分らず這々《ほうほう》の体で逐電した。女から逃れたといふよりも、もつと大きな異体《えたい》の知れない圧迫に脅やかされて、夢中に逃げだしたといふ形だつた。何物かに追はれる思ひで、人気離れた山奥を八方に逃げまはつたあげく、信濃の宿で自殺を企て、生き返つたのを機会にして舞ひ戻つてきた。そのときから一ヶ年半すぎてゐた。
 舞ひ戻つてのち、草吉の新居を始めて訪れたのは五ヶ月ばかり前のことで、深夜の街をうろついてゐたばつかりに留置場へ投《ほう》りこまれた帰りだと言ひながら、南京虫に食はれた傷を痛がつてゐたが、すこし休ませてくれと言つて白昼午睡して帰つていつた。すると翌日手みやげを持つてすぐやつてきた。それから繁々と訪れはじめた。
 その様子をみてゐると、忍の異母妹で弥生といふ十九の娘が草吉の住居に同居してゐるのであつたが、当太郎はその娘に気があるのだといふことが人々に判つた。
 さういふことが判つて一月ほど経過した一日のこと、彼は突然羽織袴といふ見慣れぬ風体で現れた。部屋へ通ると、特に弥生に同席を願つておいて、改めてキチンと坐り直したかと思ふと、却々《なかなか》しつかりした口調で幾分早口に求婚の言葉を述べた。それから誰一人挨拶のできないうちに、こんどはひどく落付払つて、一段と声を改めたうへ、自己の懐く人生観といふものを諄々と説き明しはじめたのだ。これが朗誦とか演説とでも言ひたいやうな代物で、まづ立板に水を流すが如しといふか、三十分あまりのべつ口きらずに喋べりまくつたのであつた。
 呆気にとられて控えてゐた一座の面々、漸く話に一段落がついたときには、当太郎の落付払つた一瞥をくらつて矢庭に我に返つたとはいふものの、単に甚しくホッと一息ついた形で、さて改まつて返答を探し直すには充分骨の折れる状態だつた。この様子を見てとると、当太郎はまるで待ち構えてゐたやうに更に一段と声を改め、今度は何やら一層うねうねした高遠な心境を弁じはじめたのであつた。これは正味一時間たつぷりのものだつた。草吉の耳にはプラトンだとかエピキュロス、フッサル乃至はボードレエル、パスカルなぞといふ聞き覚えの名前が、あちらで一つこちらで一つ飛びこん
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