つたわ。冷めたくなつてると思ふと、そんなことも悲しいことのやうに思へるわ……」
 まさ子のこんな感慨に向つて、草吉の答へる言葉は全くなかつた。ただ一言、
「死んでしまつたものなら、仕方がないでせう」
 と、何かのきつかけに答へたのが、実感をもつて語り得た唯一の言葉であつたのだ。
 他人の死滅――このあまりにもかけ離れた、信じられない不可能な事実が、彼の心に異様に遠い虚しさや物憂さ、所在のなさを深めてゆくばかりであつた。同時に、その虚しさの深まりゆく一方から、狂暴な肉慾が蠢めいてくるのだ。溢れるばかりの強烈な色彩を豊富に盛りあげた淫猥な想念が、閃くやうに燃えあがつてくるのであつた。その時また一方には、暗い沖のうねりのやうな荒涼とした哀愁も間断なく流れ、それらのものが一つの塊まりとなつてもつれる時には、息苦しい虚しさとなり、一瞬喪失をよびおこすほどの大きな落胆となつたりした。
 草吉は湯槽へ逃げて、無心の時間を探さうとしてみた。ところが、まさ子の見えない場所へひそんでみても、燃えあがる想念から逃れることはできなかつた。
 一風呂浴びて部屋へ戻ると、ある種の甚だぎこちない放心状態をもつて唐突に歩みより、炬燵にもたれてぼんやりと頁をめくつてゐるまさ子の弱々しい肩の上から手をかけて、至極力のこもらない静かな動作をもつてだきすくめた。狂暴な情慾がそのとき鮮明に閃きたつのを意識したが、同時に何物かを訝かるやうな暗い澱みを心に感じた。ところが斯様に切迫した一瞬間の閃きの中に、つづいてこの薄暗く澱んだ疑心を甚しく憎もうとする、まことに強烈な祈りをも意識した。とはいへ、已にいけにえを弄ぶやうに、まさ子を荒々しくみまもつた。
 まさ子の顔はひきしまつた。単純に苦しげな表情もあらはれた。ところがやがて全ての心が失はれてしまつたやうな、まつたく空虚な疲れきつた顔付になつた。さうして、逆らはふとしなかつた。
 翌日になつて、まさ子は言つた。
「お兄さんだけで沢山だつたわ! つくづく厭だと思ふのに……」
 青白い顔であつた。さうして、諦らめきつた微笑を浮かべて呟いたのだつた。
 夕刻近い時間になつて、東京から知らせが来た。新潟市のとある旅籠《はたご》の一室に於て、当太郎が毒薬自殺をとげた、といふ知らせであつた。
 発見は朝のことだが、書き残した住所氏名によつて、知らせは先づ東京へ発せられ、東京か
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