いやうな曇天だつた。どすぐろい雲が海へ低く落ちてゐるのだ。もちろん佐渡は見えないし、落ちこめた雲にせばめられて、余りにも小さい荒海だつた。まるで絶望の苦痛をみせた小さなどす黒い海、暗い沖にも高いうねりがつづいてゐるし、白い牙がそんな奥手の暗い沖にもちらめくのだつた。磯を歩くたつた一つの人影があつた。それが当太郎であることは、四五町の距離があつたが、すぐに分つた。
 怒濤の音が間断なしに地響きをうつて鳴りつづくので、恐らく狂人の絶叫も一町の遠さまではとどくまいと思はれた。二人は自然に足並を速めたが、絶えず叫びたいとする衝動のせつなさのために、まさ子の足は次第に早さが加はるのだつた。足の速まるにつれて、まさ子の瞼には涙が滲んできた。たうとう堪まらなくなつて、まさ子はひとり駈けだした。お兄さんといふ小さな必死の呟きが、顔ごと吹きちぎつてしまふやうな荒々しい潮風に鋭くさらはれたのを境ひにして、跳ねかへつて砂上に置き残された足駄には見向かうともせず、一方の足駄は夢中のうちに激しくあとへ脱ぎのこしておいて、跣足《はだし》となつてせつなげに走りはじめていつた。まだ充分に三四町の距離はあつたのだ。
 草吉はちらかつたまさ子の足駄を拾ひあつめ、これを片手にぶらさげて、逆にゆつくり歩きはじめた。この機会に改めて海の四方をはるばると眺めやると、苦悶のみなぎつた海の姿も、狂ひたつうねりのままに大いなる不動の静寂を宿してゐることが分るのだつた。草吉の心にも、その荒涼とした休息が、言語を絶した物憂さとなつて、静かに流れてくるのであつた。
 当太郎は草吉と別れた夜の疲労困憊した顔色よりも、むしろ血色がよかつた。
「生れて始めて日本海を眺めてゐたところなのだ」
 と、当太郎は侘びしげな微笑を浮べて、近づく草吉に言つた。
「一昨日までは吹雪がつづいたのだ。昨日一日雨が降りつづいて雪が消え、どうやら今日がはじめて何も降らない空模様なんだよ。吹雪の日もちよつと海の出口まで出掛けてみたが、吹き倒されるかと思はれたほどだつた。呼吸もできなくなるし、だいいち凄い海鳴りが耳もとに唸りまはつてゐるくせに、てんで海なんて見えやしないよ」
 宿へ帰つて湯槽からあがると、当太郎は別人のやうに活気づいた。
「こんな強烈な自然に直面すると、人為的な工作が凡そみすぼらしくなるものだね。一人の人間が生きるも死ぬもあるもんぢやな
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