不快とよぶほどの映像ではなかつたのだが、然し草吉はそれらのものを考へまいとして、目覚めた瞬間の心の中で美くしい風景を思ひださうとすることもあつた。ひろい海原もみえるのだつた。はるかな山岳も映るのだ。雲も、曠野も、異国の街も、押しつけがましく入れ換り立ち換りに現れてくるが、悲しさを脱ぎすてたやうな気持にはならない。
その未明おのづと草吉が目を覚して暫くの時がすぎたとき、ほのかな一ときれの白が空の奥手に浮かびでたやうな気配がした。気配はしたがそれは草吉の気のせゐであつた。実際は明るくなつてゐなかつた。然し夜明けが近づいたと彼は改めて明確に意識したのだ。さうして起きて机に向はうと考へた。そこで起きる動作にとりかからうとする身構えの途中で、彼の意識は始めて藪小路当太郎の存在にひつかかつたのであつた。当太郎はゆふべから草吉の家へ遊びにきて、彼の隣席にねむつてゐる筈であつた。
客のねむりを妨げはしないかといふ思ひつきから、草吉は立ち上る姿勢の途中で電燈をつけることに躊躇を覚え、そこで暫く身動きを失つた。ところが立ち上つてしまつたときには、投げやりなくらゐアッサリと電燈をつけてしまつてゐた。なるほど、当太郎を思ひだすことが遅れたのは、その場所に音がなかつたからであつた。見れば当太郎はゐないのだ。寝床はもぬけのからであつた。
藪小路当太郎は忍が港の曖昧屋でカクテルシェーカを振つてゐた頃、繁々とその店を訪れた常連の一人であつた。草吉も亦さうだつた。二人はその店で知りあつたのだ。当太郎は草吉よりも五つ年少の二十五歳といふ若者だつた。
「いすらえる」といふその酒場は毛唐と日本人と半々ぐらゐの常客があつたが、港でも場末の店の通例で、毛唐の質は至つてよろしくない。その大部分は印度、露西亜、ヒリッピン、支那人なぞの行商人や下級社員で、白人の方は飛入りの船員は別として、露店商人とか自称音楽教師、乃至は外国語個人教授なぞといふ看板をぶらさげた怪しげな裏道商売のてあひであつたが、然しこのてあひに限つて、目と鼻のどんな近い四ツ角からでも必ず自動車をのりつけてくる、「こんばんは、お花しやん」なぞと呟きながら、いやに重つ苦しい面魂に、むつとする安香水の匂ひをプンプン発散させながら這入つてくるのが普通であつた。
かういふ店へ、藪小路当太郎は誰に誘はれもせず、一人ぼつちで舞ひこんできた。それから何んべ
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