た草吉は、自分の心に皆目目当のないことが、まもなく分つてきたのだつた。当太郎を訪ねたい気持は微塵もなかつたのだし、どこへ行きたい気持もなかつた。歩いてゐたい気持だけが分るのだつた。
幾つ目かの曲り角へ差しかかつた時は、碁会所へ行つてみやうかと思つた。然し遊びの相手をする見知らないの男のことを思ふと、すぐさま気持が滅入つてきた。ちやうどそこへ来かかつた親切さうな通行人を呼びとめて、自分の住居に近いあたりの出鱈目な番地を述べて道を尋ねた。生憎その男はこの界隈の地理を知らない人であつたが、草吉は悦ばしげになんべんとなくお辞儀をして別れることが愉しいのだつた。活動写真の看板を眺めに行かうかと考へてみたが、歩みは自然に暗い方へ向けられて、鉄道線路沿ひの、沼地のやうにじめ/\とした草原へ現れてゐた。線路を越した向ふ側に工場があつた。すでに全ての燈火は消え、夜空にくりぬかれた風洞のやうな、巨大な黒色の影となつてのしかかつてゐた。なぜか草吉はひかれるやうに四角な広い坂囲ひを一周した。大きな澱める虚しさが、草吉の心に休息に似た静かな愁ひを与へるのだつた。彼は心に呟いた。
――俺でさへあのほのぐらい線路へ今から横はりに行くこともわけがないのだ。さうしてそれが、単にこの巨大な風洞のやうな虚しい建物の影を見たからにすぎないといふのは、不思議なことだらうか。またその俺が、この巨大な風洞のやうな夜空の影を見たために港の酒場へ行つて女を膝にのせながら酒を呷つてゐたとしたら、それは不思議ではないのだらうか。…………
草吉の心はなぜか生き生きと浮きたつてきた。彼は自らの耳へきかせるやうに、声高に呟いた。
――あの風洞のやうな巨大な夜空の影を見て、さうして、死なうともしなければ港の酒場へ急がうともせず、かうしてただ暗い路を歩いてゐる俺の姿は、不思議ではないのだらうか。…………
草吉は暗闇の空へ顔を突きあげて笑つた。線路伝ひに停車場の方へ歩いて行つて、二三度暖簾をくぐつたことのある泡盛屋へはいつた。甘臭い、さうして癖のある液体を、無理に五杯のみこんだ。それから漸くのことで、当太郎を訪ねてみやうといふ心がたかまつてきたのだ。その時はもう九時であつた。
藪小路当太郎はかなり名の売れた割烹店の倅《せがれ》であつた。父親は死んでゐたから、本来なら相当に責任のある立場であつたが、店は専ら母親と妹がきり
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