総理大臣が貰つた手紙の話
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)却々《なかなか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)精神|陋劣《ろうれつ》
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一
いつの頃だか知らないが、或る日総理大臣官邸へ書留の手紙がとどいた。大変分厚だ。危険と書いた道路の建札と同じぐらゐ大きな書体で、親展と朱肉で捺してあるのである。けれども、なんにも役に立たない。
かういふ手紙を読むために一役ありついた役人がゐて、つまらなさうな顔をしながら毎日手紙を読んでゐる。この役人が開いてみると、ザッと次のやうな大意のことが書いてあつた。
二
自分は住所姓名を打開けることをはばかるが、泥棒を業とする勤勉な市民である。
貴殿の施政方針には泥棒に関する事項がないから、貴殿が自分等の職業に対してどういふ見解を所持してゐるか推察することが出来ないのだが、多数の教養ある人士が甚だこの誤解を犯し易いやうに、貴殿も亦、泥棒とは殺人犯や放火犯や強盗などと同様に安寧秩序を乱すやからであるとお考へであつたなら、この際思ひ直す必要がある。
貴殿は誰かから、高利貸からででも、友人縁者からででも、借金されたことがあるであらうか。あれは良からぬことであるから、以後借金だけは堅く慎まれる方が宜しい。
なぜと言つて、第一、借金をして、返せなかつたらどうしますか。人は時々物を忘れるものだけれども、貸した金を忘れる人は却々《なかなか》居ないものであるし、忘れてもらうことを当にして金を借りるといふことは礼義の上からどうかと思ふ。借りた金といふものは返さなければ穏当を欠くものである。
だから適々《たまたま》借りた金が返せないとなつた時の不都合は凡そ愚劣で話にならない。貸した人の姿を見るとドキンとしてコソコソ姿を隠さなければならないし、寒中汗を流したり、一人前の発声器官を持ちながら吃つたりする。折悪しく風でもひけば悪夢の中まで借金取に追廻されて、玄関に人の跫音《あしおと》が聞えるたびに窒息し、腑甲斐ない親父を恨んでくれるな等と生れたばかりの赤ん坊にあやまつてゐる。忽ち身体を弱くして、早死してしまふのである。
貴殿のやうな高位顕官ともなればはしたない町人共のやうな惨めな慌て方はしないであらうが、さりとて貴殿の心境が借金取の来襲にビクともしないからと言つて、貴殿が総理大臣を拝命したのは帝国の安泰を保証するためであり、借金取にビクともしない為ではなかつた。借金取の来襲にも悠々閑々たる心境など、ちつとも取柄はないのである。
且又《かつまた》金を貸した方の人物にしても、有余る金があるくせに、わづかばかりの貸金の期限が切れた瞬間から、破滅に瀕する大損害を蒙つたやうな幻覚を起し、はては犬畜生にも劣つた精神|陋劣《ろうれつ》佞奸《ねいかん》邪智の曲者などと病的な考にとらはれる。徒《いたずら》に催促の手紙を書いて息を切らせ、静かなるべき散歩の途中に地団太ふみ、あいつのうちの郵便函へ蝮を投込んでくれようかなど妄念にとらはれて不眠症となる。忽ち身体を弱くして、早死してしまふのである。
どつちを見てもひとつも碌なことはない。これ皆々借金なる一事が平和なる庶民の生活に妥当を欠くためである。
然しながら、屡々《しばしば》庶民の生活には不時の急場といふものがあり、無理算段の必要にせまられることがある。半生借金の魔手に悩まされ懊悩呻吟骨身に徹した人々は、そこで浅墓な考から、虎の子を抱いて賭場へ走り、競馬へ駈けつけ、かくて又、身を亡してしまふのである。
賭博や競馬といふものは順調に行つて二度に一度当るのが最大限のものである。相手の数が増すに従ひ、何十ぺんに一度になるやら、何万べんに一度になるやら、率は下る一方である。かく明々白々なる事実を強ひて忘却し、専ら偶然をたのみ、甚しきに至つては出発に先立つて先祖の位牌にぬかづき神前に拍手《かしわで》打ちならして戦勝を祈願しお守を腹巻に縫ひこんで女房よ笑顔で送れなどと言ふ。ただもう逆上して、一も二もなく虎の子をなくしてしまふ。
挙句の果てに賭場のあにいや予想屋にケチをつけてブン殴られ、鼻血を流し、前歯を折つてしまふのである。外套を質に入れてやうやく汽車の切符を買ひ正宗の二合壜に酔つ払つて我家へ帰り、みんな俺が悪かつた、許してくれよ女房殿などと浪花節であやまつてゐる。皆々愚劣の極である。
即ち斯様《かよう》な場合に自分は泥棒を働く。又世人も泥棒を働かねばならない。
泥棒は明朗健全なものである。盗んだ人士と盗まれた人士は全く面識がないから、適々路上ですれちがひ電車に並んで腰かけても感情を害すやうなことがない。どうぞお先になどと譲合つたり、風に吹飛ばされたカンカン帽をオットットなどと拾
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