かに速力的な生命が充満してゐる。
 即ち我々はこの県へ一足這入つて、ここに人間が新らしく生れ変り、又人間の美も新らしく生れ変つたことに気付くのである。我々が現世に於て美人だの美男子だのと言つてるものは大西洋の豪華汽船の類ひであるが、神奈川県に於て人間の美は、わが国の無敵駆逐艦とか戦艦といふ必要の装甲以外の無役な一物も加へてゐない鋼鉄の浮城の姿となる。必要欠く可からざる物のみが自然に成した姿こそ真実の美である。真実の調和である。
 かりに又神奈川県の県知事とか横浜市長といふ名誉の椅子には、最も修養をつみ、技術は名人の誉《ほまれ》高く、如何なる名手といへどもこの人を掏摸《ス》るあたはず、如何ほど要心を怠らなくともこの人にかかつては掏摸《スラ》れてしまふといふ老練の巧者を据えるのが宜しからう。物腰動作はおのづと高雅な礼節を生み、慇懃を極め、動きにつれて生じる線は直線的な単純さで雅致に富んでゐるのである。全身凜として気魄知識に充ちた紳士中の紳士であるに相違ないし、その眼付などふるひつきたいほど静寂を秘めた鋭い光焔をたたへてゐる。
 然るところ、ここに横浜市長を失脚せしめて自らとつて変らうとする政敵があり、これ又一方の旗頭で、油断のならない人物である。この並びたつ両巨豪が折しも議事堂のごつた返す廊下や満員すしづめの食堂ですれ違ひ居並ぶ時は、両々火花を散らすその慇懃なる静寂、狙ひ、優美なる挨拶、壮観これに超ゆる観物《みもの》は尠《すくな》いのである。

 泥棒の効果はかく偉大で、あくまで健全、且人性に自然であり、風俗人情を淳化し、体位を向上せしめるのである。
 水泳だの野球だの角力《すもう》などいふ鍛練によつて出来上つたあの筋肉を思ひ出してごらんなさい。あるべからざる所に徒に不当な肉塊がもりあがつてゐる。あれを指して健全なる肉体であるとか、男性美の極致であるとか、まつたくもつて嘆かはしい。
 井中の蛙大海を知らずといふが、なるほど蛙は井戸を脱けでて海水浴に出掛けることが出来ないけれども、人間は猛獣狩に出掛けることも出来るし、猛獣映画を見物もでき、動物園へ行くことも出来るし、ライオン歯磨なども日々使用してゐるではないか。さすれば堂々山岳森林も睨み伏せる気魄をたたへたかの魁偉なるライオン虎の肉体を知らない筈はないのである。
 貴殿如き人物に向つて、小学生に物言ふやうに一々解説するのは愉快なことではないけれども、拳闘の選手をライオンに並べませう。百メートルの選手を競馬の馬に並べませう。水泳選手を鮫にならべませう。ああ、厭だ、厭だ。不手際な団子のやうな胸だの腕、二節の蓮根のやうな腿や脛。ただもう醜怪極まれり、極まれり。徒に肥大硬化した無役な肉塊にすぎなくて、鈍重晦渋面をそむけしむるのである。野獣のやはらかな曲線なく、竹藪だに睨み伏せる気魄なく、知識の鋭さなど影もとどめてゐない。
 単的に言へば、あの肉塊は不自然畸形無智鈍感の見本であるが、あれを指して男性美の極致であるの健全なる肉体であるのとトンチンカンな御挨拶では、御愛嬌にもならないばかりか、不美を称揚する結果不当に人の世を醜化して世を乱し害《そこな》ふ惧《おそ》れがある。
 人間の筋骨は心の容器があくまで滲みでてゐなければいけない。いくら筋骨逞しくてもライオンと挌闘しては話にならないものであるし、二節の蓮根の足達者でも馬と並んで競馬場を一周すれば面目ないやうなものではないか。だから人間はライオンや馬の真似はなるべく慎しむ方がいいし、自慢の種にはならないのである。人間の筋骨は馬やライオンの有り方に似る必要はないのである。人間は人間らしくなければならず、一にも二にも知的なものでなければならぬ。
 自分はこの職業をやりだしてから精神も肉体も余程変つた。ただ隙だらけの凡くら相手のことだから張合がなく、それだけ修練もつまないわけだが、油断がないと言ふことは内臓諸器官を調整し直接容姿筋骨に好影響をもたらすものであることは、これだけの経験によつても証明することが出来るのである。
 恋人女房子供といへども油断がならぬ。又、油断をしてはならないのである。どんな時でも芯からデレデレすることは全くもつて不心得で、子供とあなどつてオシッコの世話に浮身をやつしてゐるといつのまに懐中の蟇口が紛失するか知れないことを常々忘れてはならないのである。
 かくすれば家庭生活も根柢的に変革され、豊富、快適なものとなる。
 元来一般の家庭生活といふものは、閾をまたいで外へ出ても隙だらけ油断だらけの分際で、尚その上に女房子供と特殊地域を設定して、ここでは唯もう油断の仕放第、デレ放第に沈湎し、いやが上にも厭世的に生きようといふ仕組なのである。押売などに顫《ふる》へあがつてこれを三日分ぐらゐの話題にし、こんなことを生甲斐にしてやうやく露命
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