ているのである。
「空腹の御様子。食事の邪魔も礼なき業であるから、本日はお別れ致そう。後日の挨拶をお待ち致しておるぞ」
 と平六は胸をはり刀にソリをうたせて、馬上ユラユラ立ち去った。十郎は五郎の手の中からトビを奪って地上に叩きつけて、
「仇討までは大切な命。つまらぬ事を起してはならぬと云うのに」
「分った。よく、分ったよ。しかし、こまったね。居候の当がなくなったね。平六の女房も三浦の叔母もずいぶんうまい物をタラフク食べさせてくれたが、目にチラついてこまる」
 十郎の目にチラつくのは女の顔、五郎の目にチラつくのは山盛のゴチソーだ。
「大磯に当があるから、心配するな」
「うまいゴチソーがあるかね」
「大丈夫だ。料理屋だから」
「それは心強いな。しかし、兄貴は意外なところに味方があるんだね」
「そこの一人娘がオレの恋人だ」
「またか」
 五郎はガッカリした。

     五郎はゴロツキ兄は女に精だすこと

 大磯は当時このあたりで最も繁華な遊び場であった。大昔からの遊び場だ。
 遠い昔、西を追われたらしい高麗《こま》の豪族の一族郎党大人数が、舟で逃げてきて、ここに上陸した。今でもここに高麗神社があり、彼らにとってはここは記念すべき上陸の聖地だった。そして多くの者はそれぞれ奥地へ住み移って土着したのであるが、かの有名な武蔵秩父の高麗村の高麗家の記録にも彼らの祖先が大磯に上陸したということが語られているのである。
 大多数は奥地へ散ったが、少数はこの地にとどまり、街道筋の旅人に商いをやり、今日の駅前マーケットのようなものを組織していたのだ。
 ところが源氏の天下になり、鎌倉に幕府ができて、京と鎌倉のレンラクで東海道が日本一の幹線道路になったから、大磯マーケットはみるみるふくらんで、鎌倉近辺で第一番の遊び場になったのである。
 このマーケット代々の親分、大磯の長者、目下の長者は女将であるが、その一人娘を虎という。絶世の美人だ。
 大昔から街道筋のマーケットの長者は、いわば旅人の旅館も兼ね、料理屋女郎屋も兼ね、今の特飲店のようなもの。そこの娘も白拍子にでて上客に身をまかせるのは古来からの習いで、大磯の長者もその娘ざかりのころ伏見の大納言を客にとって生んだ子が虎なのである。
 一粒種の虎は非常に大事に育てられ、一通りの学問も和歌も、琴笛その他の楽器も遊芸全てにわたって身につけ秀でていたが、特に舞いがすばらしい。しかも絶世の美女であり、世にこれほど妙なる女があろうかと鎌倉の武士連中、つまり当時の独裁政府の御歴々に大評判の麗人であった。しかし、いかほど教養が高く、何不自由なく育ったといっても、その教養も不足のなさもまた白拍子の定めゆえで、一生の宿命はどうすることもできない。呼ばれれば客の席へも出なければならず、特別の上客にはその枕席にも侍らなければならない。
 虎にとってはまことに悲しい生活で、なんとも汚らわしく腹立たしい日々に、たまたま曾我十郎という恋人を得て、人生の希望を知ることができるようになった。とかく女に無責任な十郎だったが、この虎にはゾッコン参ったのである。たがいに堅く二世《にせ》を誓い合って、放しませぬ離れませぬと熱々の間柄である。
「この虎という女だけはオレが心から愛しているのだから、お前も今度は夜逃げをしなくとも大丈夫だ」
「そうかも知れないね。いつも女が後になってオレに知れるが、今度は先に知れたからね」
「客席にでるのが辛いから早く結婚してくれと実は目下せがまれてな」
「もう分ったよ」
「どうもお前は木石でいかんな」
 大磯の宿へはいってくると、十郎を認めて駈け寄ってきた一人の白拍子、まだ化粧もしていない黒い顔を押しつけるようにして、
「どうしたのよ、十郎さん。ちッとも姿を見せないで。お嬢さんがヒステリーで大変ですよ。実はね、今もお嬢さんが悪侍と大ゲンカしてるんですよ」
「侍とケンカ?」
「ええ、そうなんです。身分の低い侍ですが大そう腕ッ節の強い奴らでしてね。その親分格は黒犬の権太という奴ですが、ちかごろこの宿を軒なみに荒してるんです。今日はウチへ来ましてね、無理に上ろうとするところへお嬢さんがヌッと現れたんです。フトコロ手かなんかで悪侍をハッタと睨んでね。ウチへ上ってお酒をのむなら私をスッパリ斬り殺して上っておくれ、私が息をしているうちは一歩だって入れないよ、とあのお嬢さんがタンカをきっちゃったんですよ。それというのも、十郎さんがあんまり姿を見せないから、すっかり気が立ってるんですよ」
「それから、どうした?」
「どうしたも、ありませんよ。お嬢さんが悪侍を八人も相手に、結局どうにもならないのは分りきってるじゃありませんか。私はすぐ裏からとびだして、馬七だの蛸八だの芋十なぞの地廻り連に助勢をたのんだんです。今日はオフクロの命日だなんて、誰一人きてくれやしませんよ。みんな、やられてるんです。地廻りのグレン隊じゃ歯が立たないんですよ。私、どうしようかと思ってね。ほんとに天の助けだわ。十郎さんに急場を救っていただいてお嬢さんの胸のつかえを取り去ってあげさせようという天の配剤、それでたぶん天がお嬢さんにタンカをきらせたんですよ。早く、なんとかしてあげて下さい」
「拙者は事情あって一命を大切にいたさなければならない身、かりそめにも暴漢ごときと事を起すわけにはまいらぬ」
「何が、拙者だ。オタンコナス。二世を誓った愛人が悪漢相手に苦しんでるというのに、事情あって、一命。ヘン。愛より深い事情があるか。唐変木」
「よく口のまわる女だ。しかし、心配なことではあるな」
「当り前じゃないか。やい、男なら、何とかしろ。さもないと、私がタダじゃアおかないよ。女と思って見くびるな。向う脛をかッ払うぞ」
「まて、まて。その方と事を起すのは好まぬ。事情あって、拙者は一命を大切に……」
「オタンコナスめ」
 白拍子が打ってかかろうとすると、軽くその肩を押えた五郎。
「ム。痛い。ウーム、この野郎、なんてい馬鹿力だ。よせやい。動けねえや。痛いよ」
「オレは事情あって事を起すのが好きだな。オレをお前のウチへ案内しろ」
「コレ。五郎。一命を大切に……」
「一命を大切にしてるよ。ただ、事を起すだけだよ。早く、案内しろ。悪侍を退散させてから居候になるつもりだから、毎日うまい物を山盛りくわせるのを忘れるな」
「お前さんは誰だい」
「箱根の天狗だ」
「よーし。気に入った。さア、おいで」
「コラ、待て。五郎。一命を」
「大切にするよ」
 女と五郎は走りだす。物見高い連中が後を追って走りだす。仕方がないから十郎は半分歩いて半分走って、一命を大切に――呟きながら足をひきずっている。
 長者の門前へ来てみると、今しも親分格の奴がズカズカ上って虎を軽々と押えつけているところだ。門をはいった五郎、悪侍によびかけた。
「オーイ。コラ、コラ。蛸の足」
「なんだと」
 一同ふりむいてみると、雲つくような大男がニコニコ笑って立ってるから、
「蛸の足とは、なんだ」
「八人だから、蛸の足だ」
「なるほど」
「オレは当家の居候だ。オレに断りなく上ってはこまるな」
「断って上るが、よいか」
「オレはよいが、オレの手に持つものに、きいてみろ」
「手に何も持たんじゃないか」
「いま、もつぞオ」
 肩の弓矢を外して地においた五郎、玄関脇の松の木にムンズと組みついた。
「オ。松の木に相談するのか。面白いな」
「いまにもっと面白くなるから待ってろ。アリャ、リャ、リャ、リャ……」
 ゆさぶるうちに大地がメリメリとさけてきた。
「エイッ。ヤッ」
 と五郎が満身の力をふりしぼって押しつけると、悪侍の頭上へ松の木が倒れてきたから、おどろいた。
 松の葉にさされながら逃げのびて、茫然と仲間の顔を見合っている。
「さ、松の木にきいてみろ。たって上るか、どうだな」
 さすがに親分の権太、何食わぬ顔、五郎に近よりざまに太刀をぬいて斬ってかかる。五郎、体をひらいて、トントンと前へ泳いでくる権太の利き腕をたたく。力を入れて打ったようでもないが、腕が折れてなくなったよう。ポロリと刀を落して、目を白黒。五郎はその片腕と襟首をつかんで、
「そうれ。上りたければ上げてやるぞ」
 ブン廻しのように振り廻して手を放すと、屋根の上へとんで行った。
「どうだ、上り心持《ごこち》は」
 ガラガラドシンと下へ落ち、目をまわして、
「ウーム。酩酊いたした」
 と言えなかったという話。
 七人の悪侍は気絶した親分を抱きかかえて、コソコソと逃げだす。門前の群集、大喜びで、悪侍に石を投げつけている。そこへ十郎が辿りついて、弟を一同にひき合せ、勘当の事情を説明して援助をたのんだ。長者は大そう喜んで、
「居候なんて、とんでもない。大切なお客様ですよ。いえ、お店のお客様よりも大切にいたしますよ。何百年でもいて下さい。ねえ、虎や」
「ええ。その大きい立派なお方は命の恩人。大切にいたしますが、連れの痩せッぽちは、追んだして、塩をまいてちょうだい」
 大そう怒っている。十郎は別室で虎にひらあやまり、勘当の弟を見てやらなければならないので訪ねることのできなかった事情を説明して、
「五郎がここへ居候ときまれば安心だから、五郎を置いてく代りに、お前をつれて曾我へ帰るが、どうだ。まだ母に打ちあけていないからすぐ結婚というわけにはいかないが、しばらく二人だけで楽しく暮そうじゃないか」
「ほんと! 二人だけになれるのね」
「そうだとも」
「うれしい。カンベンしてあげるわ」
 という次第で、十郎は虎をつれて曾我の閑居へ戻った。
 置き残された五郎、待遇がすごく好いから大喜び。食っては立廻りの稽古をし、食っては立廻りの稽古。食うのと、立ち廻りと、寝ることのほかには何も考えない。
 例の道案内の白拍子|念々《ねね》は腹をたてて、
「ねえ、アンタ。ここをどこだと思うんだい。特飲だよ。遊ぶ女がいるんだよ。料理ばかり食ってないで、たまには女にも手をつけなよ」
「女は、うまいか」
「それは、うまいよ」
「サシミにするのか。塩焼きにするのか」
「チェッ。バカだよ、このデブチンは。ほんとに女を食うつもりらしいね」
 念々もサジを投げざるを得ない。
 五郎は大磯ですっかり顔になってしまった。大磯ばかりではなく、五里も十里もはなれた宿の遊び場からも、面倒が起ると、五郎のところへとんできて、
「ねえ、五郎さん。たのみますよ。また悪侍の一味の奴が上りこんで」
「オレは事情があって一命が」
「よしてくれよ。こッちは真剣なんだから」
「イノシシを食わせるか」
「ああ、いいとも。二匹でも三匹でもゴチソーするよ。ついでに庭の松の木の場所をかえようと思ってるんだが、ちょッとひッこぬいてくんなよ」
 なぞとしきりにお座敷がかかってくる。三年間こんな生活をしていた。五郎、大多忙、東海道の松の木や大石をどれぐらい引ッこぬいたり、動かしたりしたか分らない。



底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第三〇巻第六号」
   1954(昭和29)年5月1日発行
初出:「キング 第三〇巻第六号」
   1954(昭和29)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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