てもかまわぬという時に、かえって眠れない。ところが、忙しい時には、ねむい。多分に精神的な問題であろうけれども、どうしてもここ二三日徹夜しなければ雑誌社が困るという最後の瀬戸際へきて、ねむたさが目立って自覚されるのである。アア、こんな時に眠ったらサゾ気持よく眠れるだろうなア、と思う。ついにその場へゴロリところがって、一滴の酒の力もかりずに眠れることがある。
眠るべからざる時に、眠りをむさぼる。その快楽が近年の私には最も愛すべき友である。眠るべからざる時に限って、実に否応なく、切実のギリギリというような眠りがとれて、眠りの空虚なものがどこにも感じられないのである。天来の妙味という感じである。子供のころ、試験勉強などの最中にも、同じような眠りはあった。しかし子供のころは、そんな眠りの快楽よりも、ほかの生き生きとした遊びの快楽の方がより親しくて、眠りなどにはなじめない。それが当然なのかも知れない。こんな眠りが何より親しい友だというのは賀すべきことではないようだ。そのバカらしさを痛感することもあるのだ。
酒池肉林というような生活に堪えられる人はいないであろう。ネロが時に詩人によって愛されるのは、その裏側にある陰気な満たされない魂のせいだ。日本でやや似た暴君は秀次である。彼の生涯には明るさなどは殆どない。飲めば飲むほど陰欝になり、日々怒りと悔恨がこみあげるだけの一生であったようだ。
酒池肉林という生活には、酒と女のほかに、入浴が一つ加わっているのが普通のようだ。そのやや一般化された代表的なのがローマ風呂なるもので、ローマは風呂によって亡びたとも云う。ローマ風呂は宮殿の如き大建築で、善美をつくし、当時ローマの彫刻は大浴室を飾るためのものであったというから、それが男女の裸体の彫刻であるのは当然だ。浴場は社交場、集会場、討論場であり、やがて亡国の快楽場ともなった。まさしくそこは酒池肉林で、彼らは湯あみしつつ飲み食いたわむれ、飽食してゲイゲイ吐いては蒸気室へとびこんで汗を流して再び飲みたわむれて尽くるところを知らなかったという。その源はネロの酒池肉林に発している。彼の浴室はローマ市民の呪詛の的であった。しかしながらネロの呪われた浴室も、後のローマ風呂の発達にくらべれば、さほどの物ではなかったのである。カルカラの大浴場をはじめ、富者は各自善美をつくした浴室をもち、公共の浴場に於ても
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