、自然に精神統一や、長時間の注意力の持続ができなくなって、いろいろと妙なことになるのである。だから、私にとって、十二月、一月、二月ごろが年々最悪の期間で、仕事もはかどらないし、甚しく浮浪性が頭をもたげ、気まぐれで短気になって、我ながら手に負えない自分を感じだすのである。
いかにして無事一定量のアルコールを胃袋におさめるか、ということは私の日々の一大念願である。欲する時に酔って眠れればよろしいのだ。ところが酒の味が鼻についてイヤでたまらないから、いつも酒の品目を変えて鼻につかない工夫をしてもダメ。ついには酒席を変え、方々へとびだしてのむ。すると時には案外気持よく酔うこともあるし、益々酔えないこともあるし、とにかく外でのむとムリをするから、胃弱を急速にひどくして、朝食べた物が十二時間経過した夜分になってもソックリ胃の中にあり、吐くとそのまま出てくる。しかも尚のむのである。これでも、酒で眠れればよろしいのだ。酒というものは、催眠薬にくらべれば、どれくらい健康だか分らない。
私の場合はアンタブスを飲まずに、常に同じ薬効を経験しつつあるようなものだ。私にとって必要なのはアンタブスの逆のもの、酒がおいしく飲めて、早く気持よく酔える薬である。
酒というものが人生に害があるとは私には考えられないのである。ただ、亭主が酒をのむために生活費にも事欠くというような例は多いかも知れない。しかし、それが酒だけの罪であるか、どうか、これは一考すべきことではなかろうか。万人が晩酌ぐらいできる生活はそれを当然の生活水準と考えるべきではないだろうか。収入に比して酒代が高価だというのは、飲みたい人の罪だけではないだろう。人間のそういう保養や愉しみに、もっと同情し、それを大切にしなければいけませんよ。収入の方を増す方法がなければ、酒を安く製造できる工夫をすることも、一つの方法だ。禁酒の薬よりも、小量の酒でたのしく酔えるような薬の発明の方が、理にかなっているように思われる。政治だの科学だのというものの方向は、物事を禁断するよりも、それを善用し、生活を豊富にするような方向にむけらるべきが当然であろう。
私の酒は眠る薬の代用品で、たまらない不味を覚悟で飲んでいるのだから、休養とか、愉しみというものではない。私にとっては、睡る方が酒よりも愉しいのである。
しかし、仕事の〆切に間があって、まだ睡眠をとっ
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