もとより、信長の慧眼は、虚器の疎ずべからざる、その利用価値を見ぬいてはいた。然し、綸旨の名による体《てい》のよい借用状、徴発令に、現実の大きな実力がないことは分明である。それによって信長は、ともかく天下への自信の発芽を認めることはできたが、まことの自信を持つことはできなかったのだ。
 それから、一年すぎた。足利最後の将軍義昭が彼にたよってきた。それと前後して、老蝮の松永弾正が、信書をよせて、信長が兵を率いて上洛するなら、自分も一肌ぬいで助力する、あなたこそ次代を担い、天下に号令すべき大将だと、うまいことを言ってきた。
 天下の執政たる悪逆無道の老蝮もたしかにヤキがまわってはいた。主人に、主人の主人に叛《そむ》かせ、その主人の子供を自分が殺して主家を乗とり、公方《くぼう》を殺し、目の上のコブを一つずつ取って、とうとう天下の執政にとぐろをまいて納ったが、このやり方では味方がない、味方が同時に敵でもある。公方を殺してからのこの数年は、もっぱら味方の三好三党と仲間われの戦争に追いつ追われつ、おかげで奈良の大仏殿に放火して焼いたり、堺へ逃げて、あやまったり、さすがの老蝮も天下の政治をうッちゃらかして、逃げたり、だましたり、夜討をかけたり、つまらぬことに頭から湯気のたつほど忙しい。
 然し、さすがに老蝮であった。彼は信長を見ぬいた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術《すべ》を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。
 それにくらべれば、足利義昭の信長に対する依存の仕方は、確たる定見の欠けたものだ。生家の地位を看板に依存を身上とした義昭は、兄の将軍が松永弾正に殺されて以来、逃げのびて和田|惟政《これまさ》にたより、六角|義賢《よしかた》にたより、謙信に助力を乞い、武田|義統《よしむね》にたより、朝倉義景にたより、手当り次第にたよった。彼の一生は依存の一生で、誰彼の見境いなく、人物への信頼も信義もなかった。利用すれば、よかったのである。
 利用は、又、信長自身のお家の芸でもあった。然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。信長は悪党にあらず、と言うなかれ。彼は悪党である。一身をはり、投げすてているではないか。賭場のアンチャンのニセ悪党とは違う。ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。
 老蝮の弾正も、信長も、悪党ぶりには変りはない。老蝮は、主家を乗とり、公方を殺したが、信長は殺す必要なく自立できただけのことで、信長の方が人を殺すにむしろ冷酷無慙であったろう。
 老蝮は、一生を傍若無人の我流で押し通したこと、信長と好一対、百二十五まで生きてみせると称し、延命の灸をすえ、手当をすれば何でも長命できるものだと、苦心サンタン松虫を三年飼いならしてみせた。
 老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていた。二人の悪党の友情と、老蝮の信義がどんな風に妙テコリンなものであったか、追々明かとなるであろう。
 老蝮の信長依存の魂胆は、信長の自信に恐らく最大の安定を与えた。そして依存の真実、老蝮の信義の真実を信ずることによって、老蝮の依存を、信義を真実なものたらしめもしたのだ。かれを信ずることによって、信長は老蝮に勝ち征服したのである。
 老蝮は足利義昭の兄の将軍を殺し、その母も焼き殺した。次兄も殺され、義昭のみは逃げのびて危いイノチを助かったのだ。老蝮こそは義昭のフグタイテンの仇敵であった。義昭は都を追われ、天下の政務は老蝮の掌中にあった。
 義昭は誰彼の見境いなく人にすがって将軍家再興に奔走したが、将軍家再興の日は、憎むべき老蝮への復讐の日であったのだ。ついに信長の助力によって、義昭は京都を恢復し、老蝮の軍勢を蹴ちらした。彼は老蝮を八ツ裂きにすることを得たか。否、否。信長が老蝮をゆるしたのである。すでにその日を予想した老蝮は、自ら張本人となって信長を京都に手引きしていた。世に裏切りということがある。知らないうちに主を売り味方を売るのである。老蝮は味方を売った。然し、主を売ることはできなかった。なぜなら、彼自身が総大将であったからだ。総大将の裏切りなどゝいうことが有るべきものではない。裏切りにあらず、それを降参というのである。ところが、老蝮は、降参といえば降参、裏切りと云えば裏切り、なん
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