しても、すぐに、どうなるものではない。
 出陣の信長につき従った家来はたった五騎であった。それでも彼は時々路上で馬をグルグル輪型に駈けまわらせて、家来たちの何人かゞ用意して、ついてくるのを待った。そして、熱田についたとき馬上六騎のほか雑兵二百余人になっていた。
 熱田神宮に戦勝を祈って、さて出発という時に、信長は鞍によりかゝり、鼻謡《はなうた》をうたって、しばしばノロノロと号令もかけない。人の肩につるさがって瓜を食いながら街を歩いたタワケ小僧の再現であった。
 道の途中に、砦が落ち、守将の佐久間大学らが戦死した知らせがきた。道々砦から落ちてくる兵が加わり、総勢三千人ほどになった。今川軍の先鋒は大高城にはいって兵糧を入れつゝあり、義元は主力を田楽狭間《でんがくはざま》にあつめて、勝ち祝の謡をうなっていた。
 信長はそこを奇襲した。今川義元は味方がケンカをはじめて同志討ちをしているのかと思っているうち、もう織田方の侍が飛びかゝって首を斬り落されていたのである。
 信長の戦争は、いつもこんな風であった。家来の用意のとゝのうのを待たず、身のまわりのたった十人ぐらいで出陣するのは、この戦争に限ったことではない。家来たちは慌てふためき、信長に有無を云わさずひきずり廻され、ふと気がつくと戦争がすみ、戦争に勝っている。
 筋が立たず、不合理に思われ、それで呆気なく勝っているから、信長は勝敗は運だという、その運を家来たちはマグレ当り、偶然のギョウコウ、そう見ることしかできない。信長の偉さを合理的に理解することができないのだ。
 信長にとっては、すべては組立てられていたのである。専門家とは、そういうものだ。兵隊や将軍はたくさんいる。大将も元帥も少くはない。けれども本当の専門家はその中に何人もいないものだ。芸術家でもそうだ。
 信長にとっては、生れてから今川を倒す二十七年、見るもの、きくもの、すべてがそのために組み立てられた。そのためとは、今川だけのことではない。武田でも、上杉でも、よかった。すべて当面するそのものゝために組み立てられていたのだ、その組み立ては機械のように合理的なものであったが、家来たちには分らない。
 特に家来たちは、信長の幼少からの常規を逸したバカさ加減に目をうたれているだけに、彼の成功にマグレアタリの不安を消すことが困難だった。
 信長が父を失ったのは十六のときだ。
前へ 次へ
全20ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング