の、それは卑怯よ。なぜ、汚くないと考へるやうにしないのよ。そして私を汚くない綺麗な女にしてくれようとしないのよ。私は親に女郎に売られて男のオモチャになつてきたわ。私はそんな女ですから、遊びは好きです。汚いなどと思はないのよ。私はよくない女です。けれども、良くなりたいと願つてゐるわ。なぜ、あなたが私を良くしようとしてくれないのよ。あなたは私を良い女にしようとせずに、どうして一人だけ脱けだしたいと思ふのよ。あなたは私を汚いものときめてゐます。私の過去を軽蔑してゐるのです」
「君の過去を軽蔑してはゐないよ。僕はたゞ思ふのだ。君と僕との結びつきの始まりが軽卒で、良くなかつたのだとね。僕たちは夫婦にならうとしてゐなかつた。それが二人の心の型をきめてゐるのではないか」
女は大きな開かれた目で野村を睨んでゐた。それから、ふりむいて、ねころんで、蒲団をかぶつて泣きだした。
野村はなほも意地わるく考へてゐた。
女はなぜ怒りだしたのだらう。それも要するに、自分の淫奔な血を嗅ぎ当てて、むしろその毒血自体がのたうつてゐる足掻《あが》きであり、見様によつては狡猾なカラクリであり、女はそれを意識してゐないであらうが、まるで自分が淫奔なのは野村が高めてくれないせゐだと言ふやうな仕掛けにもなつてゐる。
なんと云つても野村には女の過去の淫奔無類な生活ぶりが頭の芯にからみついてゐるのだ。それを女にあからさまには言へないが、それはたしかに毒の血の自然がさせる振舞で、理知などの抑へる手段となり得ぬものだと見てゐるのだ。
戦争は終つた。
戦争の間だけの愛情だといふことは、二人の頭にこびりついてゐた。敵の上陸する日まで、それは二人の毎日の合言葉であり、言葉などの及びもつかぬ愛情自体の意志ですらあつた。その戦争が終つたのだ。
女はほんとに一緒に暮したい気持があるのかな、と、野村は考へてみても信じる気持がなかつた。
淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐたが、その空襲もなくなるし、夜の明るい時間も復活し、色々の遊びも復活する。女の血が自然の淫奔に狂ひだすのは僅かな時間の問題だ。止めようとして、止まるものか。高めようとして、高まるものか。
終戦になつてみると、覚悟はきまつたやうだ。なに、女だつて、さうなのだ。野村に食つてかゝつた女は、二人の愛情の永続を希むやうな言葉のくせに、見様によつては野村よりも積極的に、すでに二人の破綻のための工作の一歩をきりだしたやうなものだ、と野村は思つた。
女はいつでも良い子になりたがるのだ、自分の美名を用意したがるものなのだ、と、急に憎さまでわいてきた。
女は一泊の旅行にでも来たやうな身軽さでやつて来たのに、出る時はさうも行かないものなのか。なに、しばらく淫蕩を忘れて、ほかに男のめあてがないから今だけはこんな風だが、今にこつちが辟易するやうになるのは分りきつてゐるのだ、と野村はだん/\悪い方へと考へる。女のわがまゝを見ぬふりをして一緒に暮すだけの茶気は持ちきれないと思つた。
「もう、飛行機がとばないのね」
女は泣きやんで、ねそべつて、頬杖をついてゐた。
「もう空襲がないのだぜ。サイレンもならないのさ。有り得ないことのやうだね」
女はしばらくして、
「もう、戦争の話はよしませうよ」
苛々《いらいら》したものが浮んでゐた。女はぐらりと振向いて、仰向けにねころんで、
「どうにでも、なるがいゝや」
目をとぢた。食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体であつた。
戦争は終つたのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるやうに考へつゞけた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月16日作成
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