の?」
「ほんとうさ」
「さうかしら」
女は立つて隣家へきゝにでかけた。一時間ほども隣組のあちこちを喋り廻つて戻つてきて、
「温泉へ行きませうよ」
「歩けなくちや、仕様もない」
「日本はどうなるのでせう」
「そんなこと、俺に分るものかね」
「どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが」
「欲しいね」
女は紅茶をつくつて持つてきた。野村が起きようとすると、
「飲ましてあげるから、ねてゐてちやうだい。ハイ、めしあがれ」
「いやだよ、そんな。子供みたいに匙に半分づゝシャぶつてゐられるものか」
「かうして飲んで下さらなければ、あげないから。ほんとに、捨てちやうから」
「つまらぬことを思ひつくものぢやないか」
「病気で、おまけに戦争に負けたから、うんと可愛がつてあげるのよ。可愛がられて、おいや」
女は口にふくんで、野村の口にうつした。
「今度はあなたが私に飲ましてちやうだいよ。ねえ、起きて、ほら」
「いやだよ。寝たり起きたり」
「でもよ、おねがひだから、ほら、あなたの口からよ」
女はねて、うつとり口をあけてゐる。女は小量の紅茶をいたはるやうに飲んで口のまはりを甜《な》めた。まぶしさうに笑つてゐる。
「ねえ、あなた。この紅茶に青酸加里がはいつてゐたら、私達、もう死んだわね」
「いやなことを言はないでくれ」
「大丈夫よ。入れないから。私ね、死ぬときの真似がしてみたかつたのよ」
「東条大将は死ぬだらうが、君までが死ぬ必要もなからうよ」
「あなた、空襲の火を消した夜のこと、覚えてゐる?」
「うん」
「私、ほんとは、いつしよに焼かれて死にたいと思つてゐたのよ。でも、無我夢中で火を消しちやつたのよ。まゝならないものね。死にたくない人が何万人も死んでゐるのに。私、生きてゐて、何の希望もないわ。眠る時には、目が覚めないでくれゝばいゝのに、と思ふのよ」
野村には女の心がはかりかねた。語られてゐる言葉に真実がこもつてゐるのか皆目見当がつかなかつた。彼はたゞ、なぜだか、女との激しい遊びのあとの、女の白々と無表情な顔を思ひだしてゐた。あのとき、何を考へてゐるのだか、きかずにゐられなくなつてしまつた。
「君はそのとき、白々とした無表情の顔をするのだよ。僕を憎む色が目を掠める時もある。君は僕を憎んでゐるに相違ないと思ひはするが、そのほかに、まるで僕には異体《えたい》の分らぬ何かを考へてゐるのぢやないかと思つてゐたのだがね、あのとき何を考へてゐるのか、教へて貰ふわけに行かないかね」
女はわけが分らないといふ顔をした。そのあとでは、てれたやうに、かすかに笑つた。
「そんなこと、きくものぢやないわ。女は深刻なことなど考へてをりませんから」
そして、まじめな顔になつて、
「あなたは私を可愛がつて下さつたわね」
「君は可愛がられたと思ふのかい?」
「えゝ、とてもよ」
女の返事は素直であつた。
女は例の一時的な感動に亢奮してゐるだけなのだと野村は思つた。そして感動の底をわれば、いづれは別れる運命、別れずにゐられぬ女自身の本性を嗅ぎ当ててゐることのあらはれではないかと疑つた。
「僕は可愛がつたことなぞないよ。いはゞ、たゞ、色餓鬼だね。たゞあさましい姿だよ。君を侮辱し、むさぼつたゞけぢやないか。君にそれが分らぬ筈はないぢやないか」
彼は吐きだすやうに言つた。
「でも、人間は、それだけのものよ。それだけで、いゝのよ」
女の目が白く鈍つたやうに感じた。驚くべき真実を女が語つたのだと野村は思つた。この言葉だけは、女の偽らぬ心の一部だと悟つたのだ。遊びがすべて。それがこの人の全身的な思想なのだ。そのくせ、この人の肉体は遊びの感覚に不具だつた。
この思想にはついて行けないと野村は思つた。高められた何かが欲しい。けれども所詮夫婦関係はこれだけのものになるのぢやないかといふ気にもなる。案外良い女房なのかも知れないと野村は思つた。
「いつまでも、このまゝでゐたいね」
「本当にさう思ふの」
「君はどう思つてゐるの?」
「私は死んだ方がいゝのよ」
と、女はあたりまへのことのやうに言つた。まんざら嘘でもないやうな響きもこもつてゐるやうだつた。淫奔な自分の性根を憎むせゐだらうとしか思はれなかつた。死ねるものか。たゞ気休めのオモチャなのだ。そして野村は言葉とはあべこべに、女とは別れた方がよいのだと思ひめぐらしてゐた。
「あなたは遊びを汚いと思つてゐるのよ。だから私を汚がつたり、憎んでゐるのよ。勿論あなた自身も自分は汚いと思つてゐるわ。けれども、あなたはそこから脱けだしたい、もつと、綺麗に、高くなりたいと思つてゐるのよ」
言葉と共に女の眼には憎しみがこもつてきた。顔はけはしく険悪になつた。
「あなたは卑怯よ。御自分が汚くてゐて、高くなりたいの、脱けだしたい
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