は怒つたのではなかつた。女は泣きながら、泪《なみだ》のたまつた目でウットリと野村をみつめて、祈るやうに、さゝやいた。
「ゆるしてちやうだいね。私の過去がわるいのよ。すみません。ほんとに、すみません」
女は野村の膝の上へ泣きくづれてしまつた。野村はその可憐さに堪へかねて、泣きぢやくる女に口づけした。泪のやうに口もぬれ、その感触が新鮮であつた。野村は情感にたへかねて、女を抱きしめた。女は泣き、身もだへて、逆上する感激をあらはし、背が痛むほど野村を抱きしめて離さなかつたが、然し、肉体そのものの真実の感動とよろこびはやはり欠けてゐたのである。野村は心に絶望の溜息をもらしたが、それを女に見せないやうに努めた。けれども女はそれに気付いてゐるのである。なぜなら、亢奮のさめた女の眼に憎しみが閃いて流れたのを野村は見逃さなかつたから。
★
野村の住む街のあたりが一里四方も焼け野になる夜がきた。何がさて工場地帯であるから、ガラ/\いふ焼夷弾はふりしきり、おまけに爆弾がまざつてゐる。四方が火の海になつた。前の道路を避難の人々が押しあひへしあひ流れてゐる。
「僕らも逃げるとするかね」
「えゝ、でも」
女の顔には考へ迷ふ翳があつた。
「消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?」
「死にたくないよ。例のガラ/\落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね」
「私もさうなのよ。でも、あなた」
女の顔に必死のものが流れた。
「私、この家《うち》を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」
そのときガラ/\音がすると、女は野村の腕をひつぱつて防空壕の中へもぐつた。抱きしめた女の心臓は恐怖のために大きな動悸を打つてゐた。からだも怯えのためにかたくすくんでゐるのである。なんといふ可愛い、そして正直な女だらうと野村は思つた。この女のためには、どういふ頼みでもきいてやらねばなるまい、と野村は思つた。そして彼は火に立ち向ひ、死に立ち向ふ意外な勇気がわきでたことに気がついた。
「よろしい。君のために、がんばるぜ、まつたく、君のために、さ」
「えゝ。でも、無理をしないで。気をつけて」
「ちよつと、矛盾してゐるぜ」
と、野村はひやかした。溢れでる広い大きな愛情と落付をなつかしく自覚した。諸方の水槽に水をみたし
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