のことが云えるであろうが、私の意見では、芸術がわりあいに一般の人々の身近かなものになり、多少とも生活の伴侶に近づきつつあることが最大の収穫ではなかったかと思う。青年たちに於てそうである。
山際青年は手記の中で若きヴェルテルの清純な恋を欲しても大人のゲルの世界に負けてしまうという手記を書いて世間の物笑いの種になったようだが、アンチャンの手記の内容が空虚なのは今も昔も変りのないことで、変っているのは、マーケットのアンチャンまで、若きヴェルテルだのジイドだのというものを読んでいることは、昔はなかったことであろう。
たとえば左文嬢のような大学教授の娘が自動車運転手のアンチャンと友人として交際するというようなことが、昔は殆ど有りうべからざることであったが今ではフシギなことではない。つまり、昔の上流階級や中産階級の教養が、おのずから下達する情勢となり、アンチャンの生活に芸術への理解という必要を加えたりしている向きもあるようだ。
又、アベコベに、横浜の魚屋からヒバリ嬢が現れた如くに、農民や漁師や商人の生活が裕福になって、私の住む伊東では、漁師の家から小学校の娘のピアノの音をもれきくことができる
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